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月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第四章 月の声 ― 魂の交わり
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第二十九話:涙の理由

 柚が、震える湊の手を掴み、自分の胸元に導いた瞬間、月光はさらに深く、二人の間を照らした。

 柚の言葉は、彼にとっての赦しだった。「あなたの怖さも、私のものだから」。それは、柚が初めて、自分以外の人間と痛みを分かち合おうとした、魂の告白だった。

 湊は、柚の胸に触れる自らの手の震えが止まるのを感じた。そこには、柚が拒絶しないという、確かな安心の体温があった。

 彼は、ゆっくりと、柚の顔を見上げた。彼の瞳は、月光と、柚の表情を映し、涙で濡れているように見えた。

「ありがとう」

 湊は、ほとんど声にならないほどの小さな吐息で、そう言った。その声には、長年、誰かに寄り添おうとしてきた彼の孤独が溶け込んでいるように聞こえた。

 柚は、その感謝の言葉を聞いた途端、自分の頬に、冷たい感触が走るのを感じた。

 それは、涙だった。

 驚きはなかった。ただ、堰を切ったように、目尻から流れ落ちる水の存在を、静かに受け止めていた。

(なぜ、泣いているのだろう)

 過去、悲しい時や、裏切られた時には、涙腺は冷たく凍りつき、泣くことさえ許さなかったのに。今、目の前には、愛を恐れながらも、全身で自分を尊重してくれる人がいる。

 この涙は、過去の恋の痛みや、愛されなかった記憶に対する、悲しみの涙ではない。

 これは、心の奥深くに刺さっていたトゲが、今、ようやく湊の優しさによって溶かされ、体外に排出される、安堵と再生の涙だった。

 湊は、柚の涙に気づいたが、抱きしめようとはしなかった。彼は、柚の涙を、彼女自身の静かな「音」として捉えている。

(邪魔してはいけない)

 湊は、ただ、そっと、その涙の筋道を辿るように、震えの止まった指先を伸ばした。

 彼の指が、柚の目尻から流れてきた透明な雫に触れる。

 その感触は、塩辛い水のものではなく、ひどく優しい光のものだった。

 彼は、指先に触れたその雫を、まるで大切な宝石のように、無言で、自分の頬に持っていき、共感の呼吸とともに受け止めた。

「うん」

 彼は、一言だけ、深く頷いた。

 その沈黙の中に、柚の心の全てが語られ、そして、湊の全てによって、受け止められた気がした。

 愛された記憶がない。その事実は消えない。だが、今この瞬間、この世界で、自分の痛みを、共に背負おうとしてくれる存在がいる。

それが、柚にとって、「愛の実感」だった。

 月光の下、二人は、触れ合う指先を通して、互いの心の奥底の痛みと恐れを共有し合った。それは、肉体的な接触よりも遥かに深く、魂が交わるという感覚だった。

 柚は、もう、逃げなくていい。この涙が、その証だった。

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