第二十八話:月の傍ら
その夜、湖畔には満月が上がっていた。
昼間の張り詰めた空気は消え、月の光が、湖面を白く、そして濡れた宝石のように照らしている。
柚と湊は、宿の外のウッドデッキで並んで座っていた。会話は途切れがちで、その沈黙はもはや、壁ではなく、二人の呼吸を包む柔らかな布のようだった。
湊は、満月を静かにカメラに収めていた。シャッター音は小さく、月の声を聞く邪魔をしない。
「きれい」と柚が呟いた。
「はい」と湊が応じる。
彼の声は、昼間より少し低い。
「月はどんな姿も綺麗ですね」
柚は、湊の横顔を見つめた。柚が、そっと手を伸ばし、湊の肩に触れた。彼がレンズから目を離し、柚の方を向く。
彼は、一瞬、驚いたように、目を見開いたが、すぐに優しい笑顔になった。しかし、その笑顔の奥には、微かな緊張が隠されているのを、柚は見逃さなかった。
湊は、手を、柚の頬から耳元へと滑らせ、髪をそっと撫でた。
その仕草は、とても大切で、丁寧で、まるで柚を触れれば壊れてしまう月の光のように扱っているようだった。
湊の指先が、柚の髪を梳く。その触覚は、熱情ではなく、純粋な労いと慈しみだった。
しかし、その指先が、柚の耳たぶを過ぎ、首筋に触れようとした瞬間――
柚は気づいた。
湊の手が、かすかに、しかし確実に、震えていることに。
それは、寒さでも、興奮でもない。怖れだった。
柚は、自分の心を守るために壁を作ってきた。けれど、湊は、壁のないまま、愛という最も無防備な行為をしようとしている。
「湊くん」
柚は、静かに彼の名を呼んだ。
「はい」
「……震えてる」
湊の瞳が揺れた。彼は、動揺を隠そうとせず、むしろ、その脆さを柚にさらした。
「ごめんなさい。僕、柚さんが、あまりにも静かで、きれいだから……壊しちゃいそうで」
彼の言葉は、彼の本心を映していた。
愛された記憶がない柚は、湊の優しさを「無防備」だと感じていたが、実は湊もまた、愛する柚を失うことを恐れ、常に無防備な状態だったのだ。
彼は、自分の愛が柚を傷つけるかもしれないという、根源的な愛の怖さを抱えていた。
柚は、初めて、湊も自分と同じ場所にいることを知った。
彼は、支配者でも、救世主でもなく、ただ一人の、愛を前に立ちすくむ、臆病な青年なのだ。彼の不器用な優しさの根源は、柚を「征服」したい欲望ではなく、柚の「音」を傷つけたくない恐れから来ていた。
柚は、自分の手で、湊の震える手を掴んだ。
そして、その手を、自分の頬から、胸元へと、ゆっくりと導いた。
「大丈夫」
柚は囁いた。その声は、震えていなかった。
「もう、逃げないから。あなたの怖さも、私のものだから」
月の光が、二人の手を、優しく包んでいた。




