第二十七話:恋という音
湖畔の小石を踏む柚の足音に気づき、湊が振り向いた。彼の顔には、昨夜の不安も、今朝の戸惑いもなく、ただ静かな安堵の光が浮かんでいた。
「柚さん」
彼が名前を呼んだ。それは、控えめで、しかし深い愛情を込めた、澄んだ音だった。
柚は、湊の横に並び立つ。二人の間に、不必要な言葉はなかった。
代わりにあったのは、風の音、遠くで鳴く鳥の声、そして、静かに波打つ湖面の水の音だけ。
「いいところですね」と、柚はただ一言だけ言った。
「はい」と湊は応じる。
「音、たくさん聞こえますね」
柚は湖面を見た。波紋はもう消え、鏡のように周囲の山々を映している。
湊は、柚の隣に座り込み、再び湖面を見つめた。
「柚さん」
「はい」
「あのね、昨日、柚さんが逃げたとき、追わなかったのは、怖かったわけじゃないんです」
柚の心臓が、少し速くなる。彼は、あの逃避を蒸し返すのではないかと、一瞬、身構えた。
「僕、柚さんのこと、音みたいに思っているんです」
「……音?」
「はい。音って、無理に触れようとすると、途端に響かなくなっちゃうでしょう? 例えば、この湖の波紋みたいに。そっと見ているから、波紋がどこまでも広がっていく」
湊は、また小さな石を一つ拾った。彼はそれを柚に手渡す。
「恋も、音みたいだなって。誰かの心を、力で掴もうとしたり、自分のものにしようと強く願ったりすると、かえってその人の、持っている音を消しちゃう気がして」
柚は、手に握られた石の冷たさを感じた。
「僕は、柚さんの心の奥にある、静かな音を聴きたいんです。それは、柚さんが今までずっと大切にしてきた、孤独の音かもしれないし、悲しい音かもしれない。でも、その音は、柚さんだけの、世界で一番美しい音です」
湊の言葉は、まるで湖面を滑る風のように、柚の耳を通り過ぎ、心の奥深くへ浸透していった。
過去の恋人たちが柚に求めたのは、常に「自分のための反響音」だった。柚の孤独を打ち消し、彼らの欲望や欠乏を満たすための、強い音。
しかし、湊が求めているのは、柚自身の「音」だった。欠けたままの、静かな、存在そのものの音。
「だから、昨日、柚さんが距離を取ったとき、僕はただ静かに、柚さんの音がどこまで広がるか、待っていたんです」
柚は、石を拾って握りしめたまま、何も言えなかった。
彼の言葉はあまりにも透明で、愛というものが持つ、過去の支配的な比喩を全て破壊した。
愛とは、所有ではなく、尊重と共鳴であること。
柚の心の中で、「愛されたことがない」という、長年の呪いのような言葉が、静かにその力を失っていく。
もし、湊の言う通り、愛が「音」であるならば、柚の心には、ずっと音が存在していたことになる。ただ、それを聴いてくれる人が、これまでいなかっただけだ。
柚は、恋が怖いものではないかもしれないと感じた。
それは、熱狂的な感情ではなく、風や月光や、この湖の水面のように、世界の美しさそのものが、自分に向けられているという、静かで深い安堵だった。




