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月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第四章 月の声 ― 魂の交わり
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第二十七話:恋という音

 湖畔の小石を踏む柚の足音に気づき、湊が振り向いた。彼の顔には、昨夜の不安も、今朝の戸惑いもなく、ただ静かな安堵の光が浮かんでいた。

「柚さん」

 彼が名前を呼んだ。それは、控えめで、しかし深い愛情を込めた、澄んだ音だった。

 柚は、湊の横に並び立つ。二人の間に、不必要な言葉はなかった。

 代わりにあったのは、風の音、遠くで鳴く鳥の声、そして、静かに波打つ湖面の水の音だけ。

 「いいところですね」と、柚はただ一言だけ言った。

 「はい」と湊は応じる。

「音、たくさん聞こえますね」

 柚は湖面を見た。波紋はもう消え、鏡のように周囲の山々を映している。

 湊は、柚の隣に座り込み、再び湖面を見つめた。

「柚さん」

「はい」

「あのね、昨日、柚さんが逃げたとき、追わなかったのは、怖かったわけじゃないんです」

 柚の心臓が、少し速くなる。彼は、あの逃避を蒸し返すのではないかと、一瞬、身構えた。

「僕、柚さんのこと、音みたいに思っているんです」

「……音?」

「はい。音って、無理に触れようとすると、途端に響かなくなっちゃうでしょう? 例えば、この湖の波紋みたいに。そっと見ているから、波紋がどこまでも広がっていく」

 湊は、また小さな石を一つ拾った。彼はそれを柚に手渡す。

「恋も、音みたいだなって。誰かの心を、力で掴もうとしたり、自分のものにしようと強く願ったりすると、かえってその人の、持っている音を消しちゃう気がして」

 柚は、手に握られた石の冷たさを感じた。

「僕は、柚さんの心の奥にある、静かな音を聴きたいんです。それは、柚さんが今までずっと大切にしてきた、孤独の音かもしれないし、悲しい音かもしれない。でも、その音は、柚さんだけの、世界で一番美しい音です」

 湊の言葉は、まるで湖面を滑る風のように、柚の耳を通り過ぎ、心の奥深くへ浸透していった。

 過去の恋人たちが柚に求めたのは、常に「自分のための反響音」だった。柚の孤独を打ち消し、彼らの欲望や欠乏を満たすための、強い音。

 しかし、湊が求めているのは、柚自身の「音」だった。欠けたままの、静かな、存在そのものの音。

「だから、昨日、柚さんが距離を取ったとき、僕はただ静かに、柚さんの音がどこまで広がるか、待っていたんです」

 柚は、石を拾って握りしめたまま、何も言えなかった。

 彼の言葉はあまりにも透明で、愛というものが持つ、過去の支配的な比喩を全て破壊した。

愛とは、所有ではなく、尊重と共鳴であること。

 柚の心の中で、「愛されたことがない」という、長年の呪いのような言葉が、静かにその力を失っていく。

 もし、湊の言う通り、愛が「音」であるならば、柚の心には、ずっと音が存在していたことになる。ただ、それを聴いてくれる人が、これまでいなかっただけだ。

 柚は、恋が怖いものではないかもしれないと感じた。

 それは、熱狂的な感情ではなく、風や月光や、この湖の水面のように、世界の美しさそのものが、自分に向けられているという、静かで深い安堵だった。

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