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月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第四章 月の声 ― 魂の交わり
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第二十六話:波紋

 朝食の後、湊はカメラを手に「少しだけ湖を見てきます」と、宿を出て行った。柚は「仕事をしたいから」と一緒に行くことを断ったが、実際は、昨夜から今朝にかけての自分の微熱と逃避に、どう向き合えばいいかわからなかった。

 柚は窓から、湖畔に向かう湊の背中を見つめた。

 彼は、湖のほとりで立ち止まり、遠くを見つめている。カメラを下ろし、ポケットから何かを取り出した。

 それは、湖岸に落ちていた、白くて丸い石だった。

 湊は、その石を手に持ち、しばし、じっと湖面を見つめていた。彼の背中は静かで、まるで瞑想しているかのようだ。柚には、彼が何かを深く祈っているように見えた。

 そして、湊は、その石を、水面に向けて、何の力みもない、穏やかな動きで投げた。

 コポッ

 小さな水音と共に、水面に、円形の波紋が広がっていく。

 波紋は中心から外側へ、外側へ。湖全体の静寂を壊すことなく、しかし、確実にその領域を広げていく。波紋の輪郭はすぐに次の波紋に重なり、やがて、柚が見つめる岸辺にまで、静かな水の振動を届けた。

 柚は、その波紋を、息を詰めて見ていた。

(あれは、湊さんの優しさだ)

 昨日、柚が感じた微熱と衝動。それは、水面に落ちた石のように、柚の心の静寂を破った。過去の柚なら、その波紋が広がる前に、水面を手で叩いて消し去ろうとしただろう。

 しかし、湊は、逃げた柚を追うことなく、ただ見つめていた。

 彼の「待つ」という行為が、水面に広がる波紋を、止めさせなかった。

 柚の心の湖には、長年凍りついていた。愛されない記憶という名の、分厚い氷が張っていた。

 しかし、湊が投げた、無言の祈りとしての石は、氷に穴を開け、心の温かさを、波紋として外側へ、外側へと広げ始めていた。

 それは、柚が心を閉ざす以前、世界に対して抱いていた「無垢な共鳴」の感覚だった。風の音、光の粒、雨のリズム。それらが全て、自分と繋がっていると感じていた、孤独ではない感覚。

 湊は、一つ石を拾い、また静かに投げた。

 今度は、その波紋が、前の波紋に重なり、より大きな静寂の広がりを生み出した。

 柚は、自分が部屋の隅に逃げ込んだ時、湊が追いかけてこなかった理由を、心で理解した。

 彼は、柚の波紋が、柚自身の力で岸辺に届くまで、ただ待っていてくれたのだ。

 愛とは、誰かに与えられるものではなく、世界の優しさが、自分自身を振動させることに気づくこと。湊の存在は、その波紋のきっかけに過ぎない。

 柚の頬に、湖畔から吹いてきた優しい風が触れた。風は冷たいが、柚の心は熱かった。

(もう、閉じなくていい)

 柚は、静かに宿を出て、湊の元へと歩き出した。足音は、湖畔の小石を踏む、かすかな音だけ。

 湊は、柚の足音に気づくことなく、まだ湖面を見つめていた。

 柚は、彼に駆け寄るのではなく、彼の数歩手前で立ち止まった。

 そして、彼が石を投げたように、柚もまた、湊に向けてではなく、湖に向けて、そっと自分の呼吸を投げた。

 その呼吸の音が、湊の背中に届いた時、彼は初めて柚の存在に気づき、振り向いた。

 彼の瞳は、湖面と同じく、静かで、透明な愛に満ちていた。

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