第二十五話:微熱
朝になり、湖畔の宿は静かな光に満ちていた。
昨日までの暗闇と過去の影は消え、柚の心には、湊の体温だけが確かなものとして残っていた。彼は、朝日を浴びた子犬のように穏やかな寝息を立てていた。
柚はそっと、湊の腕から抜け出した。
(この人は、私を傷つけない)
朝起きて、隣にいる自分を見て、焦ったり、欲情したり、言葉で何かを要求したりしない。彼はただ、そこに、無防備な優しさの塊として存在している。
柚の心に、突然、制御不能な微熱が走った。
それは、愛された記憶の欠落を抱える者が、ようやく得た「光」に対し、それが偽物ではないか、いつか去ってしまうのではないかと試す、焦燥感にも似た衝動だった。
柚は湊の寝顔をじっと見つめた。
彼の、わずかに開いた唇。柔らかな髪。まだ夢の中にいる、無垢な顔。
柚は、衝動的に、身体を湊に近づけた。
自分の体温と彼の体温の境界を無くすように、そっと布団の中に滑り込み、彼の胸に顔を埋めた。
湊の鼓動が、静かに、規則正しく響いている。その音は、柚の荒れた呼吸を整える、世界で最も確かなリズムだった。
一秒、二秒、三秒――
しかし、その温もりが深くなるにつれて、柚の心は突如として警報を鳴らした。
(ダメだ。このままでは、溶けてしまう)
愛に溶けるということは、自分という個を失うこと。過去、愛されなかったために心を閉ざした彼女にとって、自己防衛の壁は最後の砦だった。
この優しさに完全に身を委ねてしまったら、もしこれが壊れた時、自分はもう二度と再生できない。
突如として、恐怖が優しさを上回った。
柚は、息苦しさに耐えかねた魚のように、湊の胸から離れ、布団から抜け出した。
柚は、部屋の隅へ、まるで過去の孤独の中へと逃げ込むように、駆け寄った。
異変に目を覚ました湊は、何が起こったのか理解できず、床に座り込む柚を見つめた。彼の、混乱と不安が瞳に浮かんでいる。
湊は、すぐに柚を追おうと、布団をめくり、立ち上がろうとした。
しかし、その動きを、彼は途中で止めた。
柚の震える肩を見て、彼が理解したこと。
それは、今、彼女に必要なのは「追いつめる愛」ではなく、「赦しと余白」だということ。
湊は、ただ静かに、布団の端に座り直した。そして、柚が逃げ込んだ方向へ、そっと両手を広げる。
抱きしめるためではない。
追わない。言葉で問い詰めない。
彼はただ、柚に向けて、無防備な体勢でいることを選んだ。
(逃げてもいい。ここに、僕はいるから)
柚は湊の姿を見て、自分の逃避行為と、それに対する湊の無言の受容に、再び胸を締め付けられた。
もし、これが過去の恋人なら、問い詰め、あるいは強引に連れ戻そうとしただろう。しかし湊は、ただ待っている。自分の優しさが、彼女を傷つけたことさえ、受け入れながら。
柚の心の奥深くで、最後の自己防衛の砦が、ガラガラと音を立てて崩れ去る。
愛とは、追いかけることでも、征服することでもない。
ただ、静かに、存在し続けることなのだと、柚は悟った。
その待たれる優しさに、柚の全身の細胞が、愛という名の「心の震え」を感じていた。




