表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第四章 月の声 ― 魂の交わり
25/50

第二十五話:微熱

 朝になり、湖畔の宿は静かな光に満ちていた。

 昨日までの暗闇と過去の影は消え、柚の心には、湊の体温だけが確かなものとして残っていた。彼は、朝日を浴びた子犬のように穏やかな寝息を立てていた。

 柚はそっと、湊の腕から抜け出した。

(この人は、私を傷つけない)

 朝起きて、隣にいる自分を見て、焦ったり、欲情したり、言葉で何かを要求したりしない。彼はただ、そこに、無防備な優しさの塊として存在している。

 柚の心に、突然、制御不能な微熱が走った。

それは、愛された記憶の欠落を抱える者が、ようやく得た「光」に対し、それが偽物ではないか、いつか去ってしまうのではないかと試す、焦燥感にも似た衝動だった。

 柚は湊の寝顔をじっと見つめた。

 彼の、わずかに開いた唇。柔らかな髪。まだ夢の中にいる、無垢な顔。

 柚は、衝動的に、身体を湊に近づけた。

 自分の体温と彼の体温の境界を無くすように、そっと布団の中に滑り込み、彼の胸に顔を埋めた。

 湊の鼓動が、静かに、規則正しく響いている。その音は、柚の荒れた呼吸を整える、世界で最も確かなリズムだった。

 一秒、二秒、三秒――

 しかし、その温もりが深くなるにつれて、柚の心は突如として警報を鳴らした。

(ダメだ。このままでは、溶けてしまう)

 愛に溶けるということは、自分という個を失うこと。過去、愛されなかったために心を閉ざした彼女にとって、自己防衛の壁は最後の砦だった。

 この優しさに完全に身を委ねてしまったら、もしこれが壊れた時、自分はもう二度と再生できない。

 突如として、恐怖が優しさを上回った。

 柚は、息苦しさに耐えかねた魚のように、湊の胸から離れ、布団から抜け出した。

 柚は、部屋の隅へ、まるで過去の孤独の中へと逃げ込むように、駆け寄った。

 異変に目を覚ました湊は、何が起こったのか理解できず、床に座り込む柚を見つめた。彼の、混乱と不安が瞳に浮かんでいる。

 湊は、すぐに柚を追おうと、布団をめくり、立ち上がろうとした。

 しかし、その動きを、彼は途中で止めた。

 柚の震える肩を見て、彼が理解したこと。

 それは、今、彼女に必要なのは「追いつめる愛」ではなく、「赦しと余白」だということ。

 湊は、ただ静かに、布団の端に座り直した。そして、柚が逃げ込んだ方向へ、そっと両手を広げる。

 抱きしめるためではない。

 追わない。言葉で問い詰めない。

 彼はただ、柚に向けて、無防備な体勢でいることを選んだ。

(逃げてもいい。ここに、僕はいるから)

 柚は湊の姿を見て、自分の逃避行為と、それに対する湊の無言の受容に、再び胸を締め付けられた。

 もし、これが過去の恋人なら、問い詰め、あるいは強引に連れ戻そうとしただろう。しかし湊は、ただ待っている。自分の優しさが、彼女を傷つけたことさえ、受け入れながら。

 柚の心の奥深くで、最後の自己防衛の砦が、ガラガラと音を立てて崩れ去る。

 愛とは、追いかけることでも、征服することでもない。

 ただ、静かに、存在し続けることなのだと、柚は悟った。

 その待たれる優しさに、柚の全身の細胞が、愛という名の「心の震え」を感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ