第二十三話:言葉のない夜
湖畔の宿は古い造りで、夕食の後、廊下を歩く木の軋む音がやけに響いた。二人はそれぞれの布団を敷き、窓の外の闇を見つめていた。柚の心は余韻でまだ波打っており、湊の隣にいるという事実に、慣れない微熱を感じていた。
湊は、柚の動揺を察したのか、カメラのデータを整理する手を止め、そっと柚に背を向けた。その、距離を置くための優しさが、かえって柚の胸を締め付ける。
過去の恋人たちは、皆、柚の心の壁を壊そうとした。手を伸ばし、彼女の孤独を征服しようと試みた。しかし湊は、柚がいつ壁を解いてもいいように、ただ静かに、その傍で待っている。
その時、部屋の電灯が切れた。
湖畔の夜は深い。都会とは異なり、周囲の家々の光も届かず、闇は柚の視界から色と形を全て奪った。
闇は、柚にとって「愛されなかった記憶」そのものだった。光も温度もない、過去の冷たさ。
柚の呼吸が浅くなる。理性は「大丈夫だ」と囁くが、心は制御不能な恐怖に飲み込まれ、過去の孤独が再び押し寄せてくるようだった。
沈黙の闇の中、柚の耳には、自分の心臓の鼓動だけが、異常な速さで鳴り響いていた。
次の瞬間、柚の耳に、湊の衣擦れの音が微かに届いた。
「柚さん、大丈夫ですか」
その声には、柚の恐怖を鎮める確かな温度があった。
柚は答えられない。ただ息を呑み、沈黙を保った。
すると、湊は、さらに布団の中から手を伸ばした。
闇の中、その手が、柚の方向に差し出されているのが、気配として伝わってくる。手探りではない。彼は、そこに柚がいると、信じて、手を差し伸べていた。
それは、柚を無理に引き寄せる手ではない。
柚の手を取ることを強要する手でもない。
ただ、「ここにいますよ」と伝える、無防備な優しさの象徴だった。
柚は、自分の手のひらを見つめた。
(触れることが、怖い)
触れてしまったら、この優しさを信じてしまったら、もしまた、裏切られた時、自分は立ち直れないかもしれない。愛された記憶がない人間にとって、「信じる」という行為は、自らの存在全てを賭ける、最も恐ろしい行為だった。
しかし、湊が差し出したその手が、闇の中でも、月光を纏っているかのように見えた。その光は、柚の過去の孤独を赦し、現在の自分を肯定してくれるように感じた。
「……湊くん」
柚は、生まれて初めて、「信じたい」という衝動に駆られた。
柚はそっと、自分の細い指先を、湊の温かい手に重ねた。
指先が触れた瞬間、柚の心臓を覆っていた氷の膜が、完全に割れる音がした。
湊の手は、少し震えていた。彼もまた、柚が手を伸ばしてくれることを、祈るように待っていたのだ。
二人の指先が、完全に結びつく。
それは、情熱的な接触ではない。ただ、暗闇の中で、二つの孤独が、「一つになった」という、魂の契約だった。
柚は目を閉じ、繋がれた手を握り返した。
(この手は、私を裏切らない。この手は、世界が私を愛しているという、証明だ)
柚の心に、数十年分の涙が、静かな安堵となって流れ込んできた。闇はまだ深いが、もはや恐ろしくない。
なぜなら、触れることは、信じること。そして、信じた場所に、愛は生まれるからだ。




