第二十一話:風の行方
都市の静寂を抜け、二人は車で遠くの湖畔を目指した。
心がほどけた柚は、隣で運転する湊の横顔を、ただ静かに見つめていた。彼の肩越しに見える空は、雲一つなく、深い青を湛えている。
湖の畔に着くと、都会の音は全て消えた。代わりに、遠くで囁く風の音と、水面が岩を優しく叩く音だけが聞こえる。
柚は深呼吸をした。肺を満たす空気は、冷たく、透明だった。
湊は、すぐにカメラを手に取り、湖を歩き始めた。彼にとって、カメラを持つことは呼吸をすることに等しい。彼の素朴な照れや、不器用さは、この自然の中では完全に消えていた。
(彼は、ここにいる)
柚は、草を踏みしめる湊の後ろ姿を見て、そう感じた。
都会の光に怯えていた彼は、今、太陽と、風と、土の中に、完全に溶け込んでいる。そこにあるのは、人を変えようとはしない、ただ寄り添い、世界そのものを見つめる「野生の優しさ」だった。
湊は、湖面に漂う一枚の枯葉を撮るために、屈み込んだ。その真剣で、どこか無防備な横顔に、柚の胸が熱くなる。
彼の視線は、柚に向けられていない。それでも、柚は、これまでにない確かな安心を感じた。
愛されることを拒んでいた過去の自分は、常に相手の視線を求め、その視線が自分を「愛すべき存在」だと証明してくれるのを待っていた。
しかし、湊の視線は、自分を評価したりしない。ただ、柚の隣にある世界、柚が立っている大地、柚の髪を揺らす風、そして柚の孤独そのものに、光を当てているだけだった。
風が、柚と湊のあいだを通り抜けた。
その風が、柚の肌をそっと撫で、すぐに湊のシャツを揺らし、そして湖面へと去っていく。
柚は目を閉じた。
(私たちの呼吸は、この風の行方と同じだ)
言葉を交わさずとも、その息遣い、その沈黙は、深く、静かに同調している。二人の間に流れるのは、互いの体温でも、恋の熱でもない、世界そのものが持つ透明なリズムだった。
柚はそっと、その場の空気に溶けるように、湊の傍らに歩み寄った。
湊が、ふと顔を上げる。
彼の瞳は、湖面の色を映し、透明感を増していた。
そして柚は、その透明な瞳の中に、風に吹かれ、穏やかに微笑んでいる自分自身の姿を見つけた。
それは、これまでの人生で、柚が一度も知らなかった、愛された自分の姿だった。




