表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第四章 月の声 ― 魂の交わり
21/50

第二十一話:風の行方

 都市の静寂を抜け、二人は車で遠くの湖畔を目指した。

 心がほどけた柚は、隣で運転する湊の横顔を、ただ静かに見つめていた。彼の肩越しに見える空は、雲一つなく、深い青を湛えている。

 湖の畔に着くと、都会の音は全て消えた。代わりに、遠くで囁く風の音と、水面が岩を優しく叩く音だけが聞こえる。

 柚は深呼吸をした。肺を満たす空気は、冷たく、透明だった。

 湊は、すぐにカメラを手に取り、湖を歩き始めた。彼にとって、カメラを持つことは呼吸をすることに等しい。彼の素朴な照れや、不器用さは、この自然の中では完全に消えていた。

(彼は、ここにいる)

 柚は、草を踏みしめる湊の後ろ姿を見て、そう感じた。

 都会の光に怯えていた彼は、今、太陽と、風と、土の中に、完全に溶け込んでいる。そこにあるのは、人を変えようとはしない、ただ寄り添い、世界そのものを見つめる「野生の優しさ」だった。

 湊は、湖面に漂う一枚の枯葉を撮るために、屈み込んだ。その真剣で、どこか無防備な横顔に、柚の胸が熱くなる。

 彼の視線は、柚に向けられていない。それでも、柚は、これまでにない確かな安心を感じた。

 愛されることを拒んでいた過去の自分は、常に相手の視線を求め、その視線が自分を「愛すべき存在」だと証明してくれるのを待っていた。

 しかし、湊の視線は、自分を評価したりしない。ただ、柚の隣にある世界、柚が立っている大地、柚の髪を揺らす風、そして柚の孤独そのものに、光を当てているだけだった。

 風が、柚と湊のあいだを通り抜けた。

その風が、柚の肌をそっと撫で、すぐに湊のシャツを揺らし、そして湖面へと去っていく。

柚は目を閉じた。

(私たちの呼吸は、この風の行方と同じだ)

 言葉を交わさずとも、その息遣い、その沈黙は、深く、静かに同調している。二人の間に流れるのは、互いの体温でも、恋の熱でもない、世界そのものが持つ透明なリズムだった。

 柚はそっと、その場の空気に溶けるように、湊の傍らに歩み寄った。

 湊が、ふと顔を上げる。

 彼の瞳は、湖面の色を映し、透明感を増していた。

 そして柚は、その透明な瞳の中に、風に吹かれ、穏やかに微笑んでいる自分自身の姿を見つけた。

 それは、これまでの人生で、柚が一度も知らなかった、愛された自分の姿だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ