第二十話:心がほどける音
写真展が終わり、ギャラリーの扉が閉められた。人々のざわめきが去った後の空間は、まるで潮が引いた後の海辺のように、深い静寂を取り戻していた。
柚は、壁から作品を外し、梱包を手伝い終えた。全てが終わった夜。二人は、荷物を持ってギャラリーを後にした。
都市の夜は深く、空気は冷たい。だが、隣に湊がいることで、その冷たさが心地よく感じられた。
道の途中で、柚は立ち止まった。
湊が、どうしたのだろう、と、不安げな子犬のような目で柚を見返す。彼は、荷物が重いのかと柚の心配をしているようだった。
柚は、彼のその無防備な優しさに、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「湊さん」
柚は、ゆっくりと、しかし、これまでの人生で最も確かな声で言った。
「…ありがとう」
言葉は、たったそれだけだった。しかし、柚にとって、それは「手伝ってくれてありがとう」という表面的な感謝ではない。
それは、「私の孤独を、光として見てくれてありがとう」、「私が愛されなかった記憶を、静かに受け止めてくれてありがとう」という、過去三十年の人生の痛みと、この数週間の安堵の全てが詰まった、内なる赦しの結晶だった。
湊は、その言葉を聞いた瞬間、少しだけ目を見開いた後、彼の大きな瞳に、静かに涙が溜まるのが見えた。彼はすぐに顔を俯け、自分の照れと感情を隠そうと、口元を手の甲で覆った。
「…いえ、僕の方こそ。柚さんが、僕の、あの写真を見てくれたことが、一番の、光でしたから」
言葉は途切れ途切れで、どもっていて、彼の不器用な誠実さが、夜風に乗って柚の心に触れた。
柚は、彼を抱きしめたい衝動に駆られた。それは、恋人への情欲ではなく、「この優しさが、世界から消えないでほしい」と願う、純粋な祈りのような感情だった。
二人は再び歩き出した。
石畳を叩く、二人の足音。しかし、そのリズムは、もうバラバラではない。まるで、夜の静かな水面に落ちた、溶け合う波紋のように、二人の足音は、静かに、そして完全に同調していた。
(私、独りじゃない)
柚は、自分の呼吸が、隣を歩く湊の呼吸と、自然に「合っている」ことを知った。それは、愛の言葉や、熱い抱擁よりも、深く、確かな信頼の証だった。
柚の硬く閉ざされていた心は、この夜、音もなく、完全にほどけた。彼女は、“誰かと呼吸を合わせる”という、生きていくための最も基本的な、そして最も大切な安心感を、湊の無防備な優しさによって、取り戻したのだ。
この瞬間、彼女の心に生まれたのは、恋というより、世界に対する静かな祈りだった。




