第二話:朝靄(あさもや)の中で
目覚めの肌寒さが、昨夜の残像を連れてきた。
柚は、あのカメラマンの顔を思い出そうとして、できなかった。輪郭は朧で、ただ、夜の闇に浮かんでいた彼の瞳の真剣さだけが、記憶の中で光っている。
(どうして、あんなに夢中になれるんだろう)
それは、柚の失った熱だった。何かに熱中し、世界と自分を分け隔てなく繋げられる純粋さ。柚は、常に一歩引いた場所から、世界を眺めてきた。
朝の光は、昨夜の闇を溶かす。出勤前の公園は、まだ白い息の、静寂の中にあった。
ふと、芝生に目をやったとき、昨日と同じ人影を見つけた。
昨夜のカメラマン、湊だった。彼はベンチに座り、公園で散歩をしていた小型犬を夢中で撮っている。朝靄が彼の肩を淡く縁取っていた。
犬は、カメラを恐れることなく、彼の足元に無防備に寝そべっている。
柚は、立ち止まった。
その瞬間、湊が顔を上げた。昨夜の彼とは違い、朝の光の下では、彼はひどく若く、不器用に見えた。
「あ、おはようございます」
彼の声は、朝の空気のように、透明で、少し震えていた。
柚は「おはようございます」と返し、通り過ぎようとした。これ以上、関わりを持つのは、心の中の静寂を乱すようで怖かった。
「あの…」
彼は少しどもり、そして顔を赤らめた。
「朝って、静かで優しいですね」
湊は、照れ隠しのように、空を見上げて言った。
「誰もいない公園。世界が、自分だけに語りかけてくれる気がして」
柚は、彼の言葉を反芻した。世界が自分に語りかける。柚は、常に世界から閉め出されていると感じてきたのに。
彼の視線は、柚の顔ではなく、彼女の背後の木立に向けられていた。それは、他人に過度に期待しない、ただ「あるがまま」の風景を愛でる視線だった。
「静かで、優しい」
柚は、心の奥で、その言葉を繰り返す。彼の言う“優しさ”は、彼女が知っている優しさとは違った。それは、見返りを求めない光のようなものだった。
その時、犬が駆け寄り、湊の足に頭をこすりつける。湊は屈んで、犬の頭を撫でた。
「誰かを笑顔にできたら、それで十分なんです」
湊は、去っていく犬を見送るように、そう呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、柚の胸がきゅっと鳴った。
彼の優しさは、刃物のように怖かった。なぜなら、その優しさが、柚の心の氷を溶かし、「愛されたい」という、封じ込めた願いを呼び覚ましてしまう予感がしたからだ。
愛された記憶がない柚にとって、優しさは常に裏切りの前触れだった。無条件の優しさに触れることは、最終的に独りに戻る痛みを予約することに等しい。
(この人は、私を傷つけないかもしれない)
そう思ってしまったことへの、戸惑い。
「そろそろ、会社へ」
柚は、短く告げた。距離を取らなければ。
湊は、まだ少し赤らめた顔で、深く頭を下げた。
「はい。お仕事、頑張ってください」
彼の声は、別れ際まで、ひたすら素直だった。
柚は足早に公園を後にした。けれど、背中に彼の視線を感じる。それは熱ではなく、朝の温度のような、そっと寄り添うだけの視線だった。
オフィスへ向かうコンクリートの上を歩きながら、柚はコーヒーの香りを深く吸い込んだ。
その香りの奥に、湊の笑顔が残像として張り付いていた。
「安心」という感情に、柚は久しぶりに戸惑っていた。それは、恋とは違う。それは、ただ、自分を壊さない光のようだった。




