第十八話:影の対話
柚と湊は、ギャラリーでの作業を終えようとしていた、ちょうどその時。
パツンという、小さな乾いた音と共に、空間を満たしていた照明が一斉に消えた。都市の喧騒さえも吸い込むような、完全な沈黙と暗闇。
「あ、停電だ」
湊は少し驚いたように言ったが、すぐに非常灯が、空間の隅を淡く、赤色に照らし出した。その柔らかな光は、二人の姿を、壁に寄り添う二つの影として浮かび上がらせた。
「びっくりしましたね。大丈夫ですか、柚さん」
湊の声は、暗闇の中で、普段よりも少しだけ低く、安心感があった。
柚は、非常灯の真下に移動し、壁に寄りかかった。見上げた湊の横顔は、影と光の境界線で、曖昧に揺れていた。
その時、柚は、何かに導かれるように、口を開いた。
「私、愛された記憶がないんです」
言葉は、空気よりも軽く、しかし、鉛のように重い事実として、空間に放たれた。
柚は、すぐに後悔した。こんな私的な、最も見せたくない「欠落」を、どうしてこの場で口にしてしまったのだろう。
湊は、何の音も立てず、ただ、その柚の言葉を受け止めていた。彼は慌てて「そんなことないですよ」と否定したり、「僕が愛します」と安易な約束をしたりしなかった。
沈黙。
その沈黙は、柚にとって、過去の恋人たちが向けた、冷たさを含んだ沈黙とは、全く異なっていた。
湊の沈黙は、まるで、広くて温かい海のようだった。柚の重い告白を、評価も、批判も、哀れみもなく、ただ静かに、その深い場所で受け入れている。
「愛されるって、どういうことなのか、分からないんです。だから、愛されても、いつも、どこか独りでした」
柚は、涙が込み上げてくるのを感じながらも、止めなかった。暗闇は、涙を許容してくれる空間だった。
湊は、柚の隣に、そっと座り込んだ。その距離は、指先が触れるか触れないかの、親密な余白だった。
彼は、ついに口を開いた。言葉は短く、柚の胸に直接響いた。
「…そう、なんですね」
ただ、それだけ。
しかし、そのたった一言が、柚の心に、言葉より温かい温度をもたらした。
(この人は、私を変えようとしない)
(この人は、私の痛みを、そのまま『そうなんですね』とだけ、受け入れてくれた)
それは、柚の孤独が、初めて誰かの優しさに共有された瞬間だった。愛された経験がないという痛みは、消えたわけではない。だが、その痛みが、もう自分だけのものではないという安堵が、柚の喉の奥に、熱い塊となって詰まった。
非常灯の赤い光が、二人の影をひとつの塊にして、壁に映し出す。
柚は、その大きな影の中にいることが、怖くなかった。むしろ、「独りではない安堵」という、甘い感覚を知った。
この沈黙と影の対話が、柚の心の氷を、そっと溶かしていく、静かな夜だった。




