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月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第三章 光の欠片 ― 心がほどける音
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第十七話:指先の距離

 柚と湊は、ギャラリーの奥で、展示パネルの配置を決める作業を続けていた。湊は、メジャーを使って正確な寸法を測り、柚はそれを壁に書き出す。

 静かな空間に響くのは、メジャーを引き出すカシャリという小さな機械音と、二人の呼吸の音だけだった。

「この大きなパネルは、視線の高さに。そうすると、鑑賞者は立ち止まりますよね」

 湊が真剣な顔で説明する。

 柚は、湊の真摯な仕事ぶりに、心を打たれていた。彼は、柚の孤独を「光」として捉えるように、世界をいつも、慈愛に満ちた視線で捉えていた。

 彼が、柚に好意を持っていることは分かっていた。しかし、湊は決して、その感情を強引に押し付けない。それは、柚が心を閉ざす最大の理由である、「愛の取引」を、彼が本能的に避けているからだろう。

 柚は、壁に印をつけるため、手を伸ばした。湊も、メジャーを固定しようと、その手を伸ばす。

 その一瞬、柚の指先と、湊の指先が、乾いた壁の上で、偶然に触れた。

 パチン。まるで、静電気のような、しかし、もっと古い、原始的な火花が散った気がした。

柚の呼吸が、ぴたりと止まる。

 触れたのは、わずか一秒にも満たない、皮膚の表面同士だった。しかし、柚の意識の中では、その瞬間に時間が止まり、世界の全ての音と光が、その小さな接触点に収束した。

(この、温度…)

 彼の指に残る、ほんのりとした暖かさ。それは以前触れたときにも増して暖かく感じた。それは、柚が今まで触れてきた、どの体温とも違っていた。過去の男たちが触れてきた柚の身体は、常に「孤独な自分を隠すための鎧」だった。だから、接触は、快楽を生むことはあっても、決して安堵を生むことはなかった。

 だが、湊の指先から伝わってきたのは、何の意図も含まない、ただ純粋な、「生きている実感」だった。

 柚は反射的に手を引こうとしたが、その衝動と同時に、「拒絶するな」という、心の奥底からの、別種の衝動が湧き上がった。

 湊は、すぐに手を離した。彼は、いつものように耳が赤くなっていた。

「…ごめんなさい」

 湊は照れたように静かに謝った。

「…大丈夫です」

 柚は、声を絞り出した。

 その時、柚の頭に、ひとつの気づきが訪れた。

(私は、触れられることを、愛されることを、恐れていたのではなくて、壊されることを恐れていたのだ)

 湊の指先から伝わった温度は、柚を壊そうとするものではない。それは、まるで、凍った湖の表面に、そっと置かれた光の欠片のようだった。触れることで、氷を割るのではなく、内側から、静かに溶かそうとしている。

 柚は、自分の身体の奥深くで、何かが静かに震えているのを感じた。それは、恋情でも、欲望でもない。

 「拒絶ではなく、受け入れてみたい」という、凍り付いた自己防衛を解く、生命の衝動だった。

 指先に残る、彼の温度。それは、柚にとって、世界で最も甘く、少し危険で、そして、安堵を呼ぶ「生きている実感」となった。

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