第十四話:カメラの記憶
雨はまだ止まない。駅で別れた後、柚は家に戻っても、先ほどの湊の濡れたTシャツと、その下の無防備な輪郭が、目の裏に焼き付いて離れなかった。あの、慌てて照れた彼の表情。
夜、湊からメッセージが届いた。
「先日撮った写真を、見てほしくて。仕事とは関係ない写真です」
添付されていたのは、今日の雨の風景写真と、そして、一枚の写真。
それは、柚だった。
公園のベンチで、雨が降る前の、曇天の下。柚が、スマホを見て、ふと指を止め、遠くを見つめている、ほんの一瞬の姿。
驚いたのは、その顔だった。
柚が社会の中で見せる、常に穏やかで理性的で、感情の動きを完全にコントロールした「仮面の笑顔」ではない。
その写真の柚は、まるで心が宙を彷徨っているかのように、瞳が遠くを見ていた。口元は少しだけ下がり、孤独と、諦念と、そして、愛された記憶がないことによる「微かな痛み」が、そのまま無防備に映し出されていた。
柚は、過去の恋人たちが愛したのは、この写真の自分ではないと知っている。彼らが愛したのは、柚が作り上げた、「愛されるための役柄」だった。
(こんな顔、誰にも見せていないはずなのに)
柚の呼吸が浅くなる。心の奥深くに隠していた、一番見られたくなかった、「独りの自分の姿」。それが、彼のファインダーを通して捉えられていた。
柚が写真を見つめていると、すぐに湊から追伸のメッセージが届いた。
「柚さんが驚いているだろうと思って。ごめんなさい。でも、この写真、僕にとってすごく特別なんです」
柚は、指が震えるのを感じた。それは、露わにされた衝撃と、それ以上の安堵だった。
湊は、すぐに次のメッセージを送ってきた。
「この顔、好きです。誰も見ていない、光を探しているような、静かな表情。すごく、優しそうに見えました」
柚は、その三行の文字を、何度も読み返した。
(この、笑っていない、寂しい顔を…好き?)
柚が過去に愛されたかったのは、「綺麗に装った自分」ではなく、「欠落を抱えた自分」そのものだった。しかし、それを誰も愛してくれなかったからこそ、彼女は心を閉ざした。
湊の言葉は、その三十年もの間に築かれた、心の最も硬い壁を、溶かした。
「優しそうに見えました」—その解釈は、柚にとって全く新しいものだった。彼女は、自分の「独りの顔」を、いつも弱さの象徴だと思っていたのに。
湊は、柚の孤独を、理解や哀れみではなく、光として捉えていた。
偽りの笑顔ではなく、愛されるために演じた自分ではない、「そのままの自分」を、この不器用なカメラマンは、真正面から「好きだ」と言ってくれた。
柚の頬に、熱いものが伝った。それは、この数年で初めて流す、静かな涙だった。
愛された記憶がない自分を、初めて、愛してもいいと言われた気がした。この衝動は、歓喜でも、恋情でもなく、「赦し」だった。




