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月の声を聴く夜  作者: 山川海雲
第二章:雨の約束 ― 心が濡れる午後
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第十二話:滴のリズム

 カフェを出た時、雨脚はさらに強くなっていた。

「濡れてしまったので、このまま帰ります」

 湊は申し訳なさそうに言った。

「柚さん、お気をつけて」

「待って」

 柚は自分の折り畳み傘を広げた。

「一緒に行きましょう。途中まで方向が一緒のはず」

 大きな湊と、小柄な柚。一つの傘に入るには、互いの距離をかなり近づけなければならない。

 柚は、躊躇なく傘の柄を握り、湊の腕をそっと掴んで、傘の下に引き入れた。彼の濡れたTシャツから伝わる冷たさが、柚の指先に触れる。

 二人は、雨の濡れた石畳の上を、一歩ずつ歩き始めた。

 雨音は、周囲の喧騒を消し去り、二人だけの世界を作り出す。

 傘の布地に当たる雨の音、足元の水たまりに落ちる水滴の音。そのすべてが、二人の間を支配する「滴のリズム」だった。

 柚の肩が、湊の濡れた腕に、時折、微かに触れる。その度に、柚の心臓が、雨音に紛れて跳ね上がった。先日、ふたりで傘を使ったときよりも、柚は湊の体温を感じるようになっていた。それは湊も同じだった。

(近い。近すぎる)

 物理的な距離の近さは、柚の理性的な防御壁を弱らせる。肌と肌が、衣擦れの音と共に触れ合うたびに、体温と、そして、湊の鼓動が、柚の腕を通して伝わってくるような錯覚に陥った。

「あの…傘、僕が持ちましょうか」

 湊が、顔を赤くして言った。彼の声は、雨音にかき消されそうになるほど、小さかった。

「大丈夫」

 柚は、傘を握る手に少しだけ力を込めた。「あなた、びしょ濡れでしょう。手を冷やさない方がいい」

 それは、恋人同士の会話ではない。ただの思いやりだった。しかし、柚にとっては、相手の世話を焼くという行為自体が、心の扉が少し開いた証拠だった。彼は、柚の優しさに、驚いたように目を見開いた。

 沈黙が続く。その沈黙は、もう以前まで感じたような孤独や、緊張ではない。

 雨が、すべてを洗い流してくれるかのように、二人の間には、確かなぬくもりが生まれていた。

 湊の呼吸、柚の呼吸。

 雨音をバックグラウンドミュージックとして、二人の呼吸が、初めて一つに溶け合う。

 雨は、二人の距離を許し、親密さの象徴となっていた。

(このままずっと、この雨の中にいたい)

 柚は、初めて、誰かの隣で、時間を止めてしまいたいという衝動に駆られた。それは、恋ではなく、愛された記憶の欠落を埋める、安心のような感情だった。

 ふと、湊が言った。

「柚さん、歩くの、ゆっくりでいいですよ」

 彼は、柚の小さな歩幅に合わせて、自分の大きな歩幅を調整していることに、柚は気づいた。人を変えようとはせず、ただ寄り添い、見守る湊の優しさ。

 その時、二人の肩が、また触れ合った。

傘の外側を流れる水滴が、まるで柚の心の内側の氷が溶けて、外界へ流れ出していく滴のリズムのようだった。

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