第十二話:滴のリズム
カフェを出た時、雨脚はさらに強くなっていた。
「濡れてしまったので、このまま帰ります」
湊は申し訳なさそうに言った。
「柚さん、お気をつけて」
「待って」
柚は自分の折り畳み傘を広げた。
「一緒に行きましょう。途中まで方向が一緒のはず」
大きな湊と、小柄な柚。一つの傘に入るには、互いの距離をかなり近づけなければならない。
柚は、躊躇なく傘の柄を握り、湊の腕をそっと掴んで、傘の下に引き入れた。彼の濡れたTシャツから伝わる冷たさが、柚の指先に触れる。
二人は、雨の濡れた石畳の上を、一歩ずつ歩き始めた。
雨音は、周囲の喧騒を消し去り、二人だけの世界を作り出す。
傘の布地に当たる雨の音、足元の水たまりに落ちる水滴の音。そのすべてが、二人の間を支配する「滴のリズム」だった。
柚の肩が、湊の濡れた腕に、時折、微かに触れる。その度に、柚の心臓が、雨音に紛れて跳ね上がった。先日、ふたりで傘を使ったときよりも、柚は湊の体温を感じるようになっていた。それは湊も同じだった。
(近い。近すぎる)
物理的な距離の近さは、柚の理性的な防御壁を弱らせる。肌と肌が、衣擦れの音と共に触れ合うたびに、体温と、そして、湊の鼓動が、柚の腕を通して伝わってくるような錯覚に陥った。
「あの…傘、僕が持ちましょうか」
湊が、顔を赤くして言った。彼の声は、雨音にかき消されそうになるほど、小さかった。
「大丈夫」
柚は、傘を握る手に少しだけ力を込めた。「あなた、びしょ濡れでしょう。手を冷やさない方がいい」
それは、恋人同士の会話ではない。ただの思いやりだった。しかし、柚にとっては、相手の世話を焼くという行為自体が、心の扉が少し開いた証拠だった。彼は、柚の優しさに、驚いたように目を見開いた。
沈黙が続く。その沈黙は、もう以前まで感じたような孤独や、緊張ではない。
雨が、すべてを洗い流してくれるかのように、二人の間には、確かなぬくもりが生まれていた。
湊の呼吸、柚の呼吸。
雨音をバックグラウンドミュージックとして、二人の呼吸が、初めて一つに溶け合う。
雨は、二人の距離を許し、親密さの象徴となっていた。
(このままずっと、この雨の中にいたい)
柚は、初めて、誰かの隣で、時間を止めてしまいたいという衝動に駆られた。それは、恋ではなく、愛された記憶の欠落を埋める、安心のような感情だった。
ふと、湊が言った。
「柚さん、歩くの、ゆっくりでいいですよ」
彼は、柚の小さな歩幅に合わせて、自分の大きな歩幅を調整していることに、柚は気づいた。人を変えようとはせず、ただ寄り添い、見守る湊の優しさ。
その時、二人の肩が、また触れ合った。
傘の外側を流れる水滴が、まるで柚の心の内側の氷が溶けて、外界へ流れ出していく滴のリズムのようだった。




