第十一話:雨のカフェ
先日の最後の夜から、柚と湊は仕事での接触がなく、連絡も取っていなかった。しかし、柚の心の中には、夜風のように、湊の存在が常に吹き込んでいた。「また会いたい」と、あの時、返した言葉の重みが、静かな緊張として残っている。
その日、朝から都市に雨が降っていた。柚は、午後の打ち合わせを終え、会社の近くの馴染みのカフェに入った。雨音が窓ガラスを叩き、店内は柔らかな灯りに包まれて、静かな水の中にいるような心地がした。
いつもの窓際の席に座り、コーヒーを注文する。
ふと、入り口のドアが開いた。
水滴を滴らせた見慣れた人物がいる。
湊だった。
彼は、全身びしょ濡れだった。黒いTシャツは肌に貼りつき、髪からは雫が落ちている。柚は、息を飲んだ。彼の大きなカメラバッグまで濡れている。
湊は、柚に気づき、目を大きく見開いた。そして、いつものように、途端に顔を赤くし、困ったような、それでも嬉しそうな、無防備な笑顔を浮かべた。
「ゆ、柚さん!…えっと、こんなところで」
彼は慌てて、濡れたバッグを床に置いた。
「湊さん。びしょ濡れじゃないですか。傘は…?」
柚は、思わず立ち上がってしまった。彼のあまりにも無防備な姿に、心を閉ざすことも、理性的に振る舞うこともできなかった。
「あ、傘…忘れてきちゃって。朝は急いでたから」
彼はそう言って、頭を掻いた。その仕草すら、まるで雨の中で見つけた大きな犬のようで、柚の胸がきゅっとなった。
「ちょっと、こっちへ。風邪をひきますよ」
柚は、隣の椅子を引き寄せた。湊は恐縮したように、遠慮がちに座った。彼の周りの空気が、湿気と土の匂いを帯びて、柚の席まで流れ込んでくる。
湊は、体を縮こませる。
「実は…」
彼は言い淀み、一度深く息を吐いた。
「実は、このカフェの近くで、柚さんがいる気がして。柚さんの会社の近くだし。なんとなく、ここに来てみたんです」
柚の心臓が、鼓動を一つ、強く打った。
(気がしたから)
それは、偶然を装った、ほとんど告白に近い、言葉だった。彼の不器用な「愛への一途さ」が、雨の冷たさとは反対に、柚の心に熱を与えた。
「想われる」という現実。
柚は、「愛された記憶がない」からこそ、誰かに本気で想われることに、怖さを感じる。その思いは、期待を生む。そして、期待は、いつか裏切られる。
柚は、濡れた彼のTシャツの輪郭を、ぼんやりと見つめた。その下にある、体温。その体温が、自分に向けられていることの、幸福と、そして恐れ。
「…びしょ濡れの姿を見られて、恥ずかしいです」
湊が照れて、俯く。彼の濡れた髪の先に、カフェの柔らかな灯りが反射していた。
柚は、小さく息を吸い込んだ。
「大丈夫です。その、…雨も、湊さんの、一部みたいで」
言葉を選びながら、柚は、自分の胸の奥に、恋の芽生えを感じた。それは、静かに、しかし、確実に、内なる孤独の氷を溶かし始めている。
外雨音とカフェの小さな喧騒が、二人の間に流れる、静かな沈黙を包み込んでいた。




