第十話:呼ばれた名前
撮影が終わり、機材の片付けも済んだ頃には、すっかり夜になっていた。仕事の失敗で沈んでいた柚の心は、湊の「欠けた月」の話のおかげで、少しだけ軽くなっていた。まるで、重い荷物を背負い続けた肩から、力が抜けたかのように。
会社のエントランスで、二人並んでエレベーターを待つ。沈黙は、もはや重苦しいものではなく、二人の間で揺れる、柔らかな空気のようなものになっていた。
「今日は、本当にありがとうございました」
柚が静かに言った。
「湊さんのおかげで、心が少し、楽になりました」
湊は、恥ずかしそうに目を伏せた。
「いえ、僕の方こそ…柚さんが、その、…ちょっとでも笑ってくれたら、それで十分なんです」
エレベーターが着き、二人は乗り込んだ。湊は、柚から目を離せず、何かを言いたそうにしている。
一階に到着し、ドアが開く。
柚が歩き出そうとしたそのとき、湊が小さく、けれど意志のこもった声で言った。
「あの…」
柚が足を止め、振り返る。
湊は、深く息を吸い込んだ。彼の顔が、わずかに赤くなる。
「…仕事が済んでしまっても、また、会いたいです」
それは、要求ではなく、願いだった。柚の返事を待つことに怯えているかのように、彼の両手は、カメラバッグのストラップを強く握りしめている。
柚の胸が、きゅっ、と鳴った。
(また会いたい)
そのシンプルな言葉が、柚の心を貫いた。柚は、愛されることを拒否し、恋愛から距離を置いてきた。だが、これは「愛の告白」というよりも、「共鳴の継続」を願う、純粋な祈りのように聞こえた。
柚は、すぐに言葉を返せなかった。愛されることへの、最後の壁が、まだそこにあった。
「その、もし、柚さんが嫌じゃなければ…」
湊は、狼狽して、慌てて言葉を付け足す。彼の背中は、一途な子犬のように、丸まっていた。
柚は、ゆっくりと、微笑んだ。それは、久しぶりに心から湧き出た、理性で制御されていない微笑だった。
「…私で、よければ」
湊の顔に、ぱっと光が差した。それは、曇天から覗いた、一筋の月明かりのような、透明な喜びだった。彼は、心底安心したように、深く息を吐いた。
「ありがとうございます…柚さん」
湊が呼んだ「柚さん」という響き。
今までの仕事相手は、皆「黒木さん」と、苗字で呼んだ。しかし、湊は、別れ際に、改めて、名前を呼んだ。
その響きが、柚の胸に残った。
(柚)
「私」として、彼の目に映っている。柚という、世界にたった一人しかいない、不完全で、欠けた存在として、受け入れられている。
柚は、自分が、誰かの記憶の中に、たしかな形を持って存在することを、初めて実感した。愛された記憶がなかった女性に、「私」という存在の肯定が、この、不器用なカメラマンの震える声によってもたらされた。
「じゃあ、また」
柚は、そう言って、夜の街へと歩き出した。
振り返らず、ただ前を向く。
背後で、湊が立ち尽くしているのが分かった。その視線は、熱く、けれど尊重に満ちていた。
柚の心臓は、静かに、けれど力強く鼓動していた。それは、孤独の音ではなく、“私”として生きていることの、確かなリズムだった。
【第一章 終】




