第一話:眠れない夜に
夜は、冷たかった。
柚はスマホの画面を閉じた。青白い光が消え、指先に残る熱だけが、彼女を世界のどこかに繋ぎ止めているようだった。誰もいない。誰からも届かない。それは安堵であり、哀しみの味だった。
キッチンに置かれた紅茶は、とうに氷のように冷え切っていた。その液体を、柚は飲まずに見つめる。グラスの水面に、自分の顔がぼんやりと映る。
それは、まるで他人の顔だった。
愛された記憶がない。誰かに深く求められた熱量を知らない。だから、恋をしても、愛される未来を想像できない。その孤独は、彼女にとって呼吸と同じだった。慣れすぎて、もはや痛みとして感じなくなっていた。
けれど、時折、夜の底で小さな声がする。
「本当に、このままでいいの?」
柚はベランダに出た。十一月の夜風が、肌を滑る。風は、人の手が触れるよりもずっと優しい。しかし、人肌の温もりはない。
都市の静寂は、遠くで響くサイレンの音を際立たせた。街の灯りは、一つ一つが誰かの生活の残光だ。窓の向こうで笑う声、テレビの喧騒、愛し合う呼吸。すべての生活の営みから、自分だけが切り離されているように感じた。
街の灯りが、涙を照らす。流れもしないのに、目の奥で熱くなる。
「誰にも期待しない」
そう呟いた声は、夜風にすぐに掻き消された。この世で一番信用できないのは、他人の優しさ。そして、自分の心だった。
その時、遠くの街路樹の下で、カシャン、と乾いた音がした。
柚は視線を向けた。小さな光の粒が集まる場所。そこに、見慣れない人影があった。背の高い男性が、カメラを構えている。こちらにレンズを向けているわけではない。彼はただ、街の空気そのものを切り取っているようだった。
彼は、時折、大きく息を吐き、寒そうに肩をすくめている。それでも、その視線は真剣で、どこか無防備だった。柚の知る「プロ」の顔ではなかった。
風景を撮っているのか。それとも、この孤独な夜そのものを撮っているのか。
ふと、彼の動きが止まった。レンズから目を離し、夜空を見上げている。その仕草は、まるで夜の美しさに感動している子どものようだった。
そして、彼は、こちら、つまり柚がいるマンションの方向を、何気なく見つめた。
目が合ったわけではない。だが、柚の心臓が、夜の沈黙の中で急にドクンと跳ねた。
(見られた)
自分の存在が、暗闇の中で露わになったような感覚。恥ずかしさと、消えかけた自意識が、小さな火花を散らした。
彼はすぐに視線を空に戻し、再びシャッターを切った。そして、満足したように、小さく頷く。
その一連の動作に、悪意も計算もなかった。ただ、世界と対峙し、その美しさをそのまま受け入れている純粋さだけが、夜風に乗って伝わってきた。
柚は慌ててベランダの窓を閉めた。肌はまだ冷たい。けれど、心臓の奥には、わずかな熱が残っていた。
(どうして、あの人は、あんな夜更けに、あんなにも無防備な顔で、世界に触れていたのだろう)
「眠れない」
冷えた紅茶のグラスを握りしめた。指先に残る彼の“予感”のような熱を、柚は長い間、見つめていた。




