第8回
よろけたおれの耳に「きゃあ!」と姫君の上げた驚声が飛び込んでくる。おれはといえば、額に受けた傷より魎鬼の蹴り足が巻き上げた砂が目に入ってしまったほうが問題で、涙と手で必死にこすり落としていた。
幸い当の魎鬼は傷んだ足に重心を置いてしまったため、どこかの骨が砕けたらしく、足が変な方向にねじれて、ひっくり返ってしまっている。
「平気ですから来ないでください!」
立ち上がり、こちらへ来ようとしている姫君の気配を読んで、大急ぎで制止の声を発した。
首をおとすか心臓を砕くしかしないと魎鬼は死なない。両手を使い、身を起こそうとしている魎鬼の右腕を蹴りつけ、踏み敷いてそのまま心臓に剣を突き立てようとしたとき。突然魎鬼が頭を剣の腹にぶつけてきた。
「しまった!」
言葉が口をつくのと剣が破砕するのとがほぼ同時に起きた。たて続けに魎鬼5匹を相手にし、その強酸にまみれた肉や骨を断っていた剣は、おれが危惧していたよりずっともろくなってしまっていたのだ。
武器を失ったおれに向かって、すかさず魎鬼の左腕が飛んでくる。かろうじてそれをかわし、砂地を転がって距離をとったおれの前、身を起こした魎鬼が向かったのは姫君のほうだった。
離れすぎたと、悔いても遅い。
「姫君、逃げてください!」
両手を足がわりにして魎鬼は姫君との距離を縮める。間にあわないと知りながらも短剣を手に駆け寄ろうとしたおれの目の前で、姫君は悲鳴をあげながら先におれが与えておいた精砂の入った小袋を魎鬼の顔面にぶちあてた。
――――グオォオオオォッッ!!
小袋が、魎鬼の顔に当たって跳ねて、中身をまき散らしながら口中へ飛び込むのが見えた。
直後、魎鬼は苦悶のうめきを上げて横倒しになる。どうやら強酸によって小袋が溶かされて、中身が一度に口内に広がり、のど奥まで落ちたらしい。じゅわじゅわと音をたてて腹のところから魎鬼の体が溶け出していた。
精砂は酸でも猛毒でもない。そんなばかなとは思ったが、今はそれどころじゃない。
「姫君!」
放心しきっているその手をとり、自分のほうへ引っ張る。恐怖に立てないでいる彼女の足をすくって抱き上げ、断末魔の悲鳴を上げて暴れる魎鬼の手や酸の届かない所まで走った。
◆◆◆
砂丘ひとつ越えたあと、俺は彼女を下ろした。
はあはあと2人して肩で息して脱力し、互いに身を預けあう。
姫君の面が苦痛に歪んでいるのを見て、右足首が黒くただれていることに気がついた。
「酸がかかったんですね? 見せてください!」
短剣をとり、足を持ち上げる。ズボンを裂いて傷を見たが、かぶり布とズボン、防砂のために足首に巻いてあった布のおかげで大事には至っておらず、軽い火傷ですんでいた。
「痛みますか?」
婚儀前の姫君の玉体に傷をつけるなんて、とんだ失態だ。
救急袋からとり出した軟膏を塗って、包帯を傷口に巻きつける。
あとが残らなければいいが……。
「申しわけありません、わたしが未熟なばかりにこのような傷を負わせてしまい――」
おれじゃなくて先輩たちだったら、こんなことは起きなかっただろうに。
ああほんとにおれってやつはどこまで未熟なんだか……と自己嫌悪に顔が上げられないでいたおれの額に、姫君の手が触れ、傷口に触れた。
「あなたのほうこそ。痛みませんか?」
まるで自分にこそそこに傷がついているように、涙目で訊いてくる。
自分の足の傷についてまったく頓着していない、くすぐったい指先の動きに笑いをかみ殺しながら、なんでもないと答えて、何気に落とした視線の先。
鼻の先まで迫っていた姫君の胸元を見て、おれは愕然となった。
「これは……っ!」
胸元を飾っていた豪華な首飾りにまぎれるように、下に隠れていた首飾りの1つをちぎり取る。
「きゃあっ!
な、何をなさいますのっ、いきなり!」
驚き、ついで怒声をあげて胸元の布をかき集めた姫君に、おれはちぎりとった首飾りのうち、よけいな金だの宝石だの鎖だの、破片を散らして、親指の先ほどの赤い鈴をつまんで見せた。
「これは、だれからいただいた物ですか?」
血のように赤い鈴。鈴の形はしているが、振ったところで音はしない。
姫君は、突然鋭さを増したおれの声にとまどいながらも、その鈴をしげしげと見て答えた。
「その首飾りでしたら、たしか、大臣のルフトから献上された慶賀の品のひとつですわ。
それが何か?」
「これが、諸悪の根源だったんですよ」
いまいましさに、おれは鈴を握りこんだ。
ったく、どこまで間が抜けているんだか。
魎鬼の集まりやすい岩場――その知識が、思考を限定していたんだ。どの魎鬼たちも、おれたちを目指して近付いてきてると思ったとき、まずこの可能性を考えるべきだったのに。
「これは闇で出回っている、魅魎を呼び寄せる暗殺用の呪具です。魅魎にだけ聞こえる音を発し、獲物の位置を知らせるという。
どうやらその大臣には、あなたにカザフへ行かれると困る理由があるようですね」
「そんな……! 彼は、わたくしの叔父です! 彼もこの婚儀をとても喜んで、笑顔で送り出してくださったのに……なのに、どうして――」
「それはわたしにも分かりません。ですが、これがその証拠です」
ふう、と息をついて鈴を握りこんだ手を見た。
原因が分かったところでこれじゃどうしようもない。こんな厄介な品、いっそ投げ捨ててしまいたいが、陰謀の物的証拠だし、まただれかの手に渡って犯罪が発生することだって十分あり得る。
かといってこのまま持ち歩くのもいやだから、せめて端のほうを割るか砕くかして『形』を失わせ、効力をなくしてしまおうと短剣の切っ先を当てたとき。
「たいへん!」
と、姫君が何か思い出した様子で叫声をあげた。




