第2回
あれは――ちょうど月が真上近くまで昇った時刻だったな。
気が急いて、いつもより長く歩かせたせいか、気付いたときには乗っていたダフの耳がすっかり後ろに寝てしまってて、疲れたから休みたいと主張していた。
気配には動物のほうが敏感だからと魎鬼の探知をダフに任せきって、ぼんやりしていたからどのくらいたったか測りかねたけど、ダフの様子からしていつもなら休憩を入れる時間をとっくにすぎてしまっているのはたしかなようだった。
ブルル、といななく声も心なしかとがって聞こえて『これ以上歩かせる気ならふり落とすぞこの野郎』って言ってるみたいだったな。
「ごめんごめん」
ぱしぱし、と太い首をはたきながら砂の上に降りたおれの目に、砂丘を3つ4つ間にはさんだ先にある、とがった岩場が入った。
ああ、あれが例の岩場だな、と思ったら、なんか背筋にゾクっとくるものがあって。
「おれも歩くから、もう少し我慢してくれ」
って声かけて、手綱をとったんだ。
砂漠を旅するなら朝方と夕刻ってのは常識。ほんとならもう移動するのはやめて、寝に入らなけりゃいけないころだったんだけど、せめてあの岩場が視界から消えるまで進んでからにしようって思って。
だけど、あいにくそうすることはできなかった。
できてたらあんな経験しなくともすんだんだろうけどね。でも、そうしたらこうして今、話のネタにはならなかっただろうから、良かったのか悪かったのかまでは分からないけど。
行路が、一番岩場に接近してる場所へさしかかったとき。おれは、だんだん風が強まっているのに気がついた。
よりによって砂嵐が? と思ってあせったけど、どうやら風が砂をまきあげる風砂程度でおさまりそうだった。
が、砂嵐じゃないからって軽視はできない。軽くおれの背丈越えてまきあげられるから、足元が見えなくなって道を誤る危険性がある。
ただでさえ砂漠の行路は読みづらくて見失いがちなんだ。食料に余裕がない以上、道からはずれるのはやばいと、おれはダフに四肢を折るよう指示してその場にしゃがみこませ、くくりつけた荷の中からとり出した毛布をフードマントの上からかぶってダフの脇に座りこんだ。
ダフはでかいから十分おれの盾になってくれる。ダフ自身、これから風砂が起きるのを理解してか、折った前足の間に鼻を挟むように顔を伏せ、耳と目を閉じている。
おれは、この突然の足止めに内心いらいらしながらも毛布の端で口と鼻をおおい、目を閉じて、風砂が通りすぎるのをじっと待つことにした。
◆◆◆
風砂は2刻半ほどでおさまった。
思っていたより長くて、毛布の下で、もしやこのまま1日2日続いて、ここで足止めくらうんじゃなかろうか、なんて不安を感じていたころだったから、すっごい解放感だったなぁ。
ばっと毛布をはね飛ばして立ち上がったら、上に積もっていた砂が全身からぱらぱらぱらぱらこぼれ落ちたりして。
当然毛布で防ぎきれず、服の下にもぐり込んだ砂も大量にある。
「こりゃ下着まで砂まみれだな」
なんて独りごちりながらあちこちパタパタはたいてたら、突然後ろのほうから若い女の悲鳴が聞こえてきたんだ。
声のしたほうをふり返ったら、月の光に白く浮き上がったあの岩場の先端が見えた。
風砂で地形が変わって、数が増えたかわりに低くなった砂丘のせいか、それとも埋もれていた部位が風に掘り起こされたためにそうなったのか、ふたまわりは巨大になって見えて、さすがに一瞬ギョッとしたな。
けど、すぐまたあのせっぱつまった悲鳴が聞こえてきて。我に返ったおれは、すぐさま荷から破魔の剣を引き抜き声のしたほうに走り出した。
「おまえは来るな! そこにいろ!」
とダフに指示を出しておいて。
◆◆◆
長く押さえこんでいたものから解放されたみたいに、悲鳴は間断をあけず上がり続けた。
おかげで距離や方向がつかめてよかったけど、それだけ状況が緊迫してるのかと思うとその分こっちの気もあせって。
2つの砂丘をすべり降り、かけ上がった3つめの砂丘の頂上から、ちょうど対角の斜面で魎鬼と、魎鬼に襲われている女の姿を見つけられたときは心底ほっとしたんだけど、なさけないことに、同時に初めて剣の口を紐でしばったままだったことに気付いたんだ。
コナの町を出たときほどくのを忘れて、そのままだったのさ。
普段であったなら絶対しないミスだ。
平常心が欠けていたことを目の前に突きつけられた思いで、己の未熟さに舌打ちをもらしたおれは、とにかく声をあげながら砂丘をかけ降りた。
魎鬼と女の距離はないに等しく、女は腰が抜けてしまったのか立ち上がる様子も見せない。真上に迫ったおそろしい化け物に、ついには声までも失ってしまったようで、身を小さくして震えているだけだ。
だが相手は獣じゃない。危害を加える気はないといくら示したところで退いてはくれない。
「くらえ!」
声をあげることで魎鬼の注意をひくことに成功したおれは、素早く懐に入れてあった精砂の小袋をつかみ出し、魎鬼の顔面めがけて投げつけた。
小袋はとっさに顔をかばおうとした魎鬼の爪にひっかかり、やぶけて中身を撒き散らす。この突然の出来事に魎鬼はひるみはしたものの、おれが期待した『きらって逃げ出す』という行為にまではいたらなかった。
精砂は砂漠で露営するときに周辺に撒いたりと魎鬼避けに用いられる物だが、興奮した魎鬼相手には効果が薄く、期待できない。特にこういった、獲物を目の前にした場合には。だから、期待が損なわれたとはいえ、おれは別段驚きやしなかった。
「はなれて伏せてろ!」
口と左手を使って紐をほどきながら帯にはさんであった短刀を抜く。追い払えないまでも、警戒心を引き起こすには十分役立っていて、女を襲う動きは止まっている。今なら逃れられると、言ってやったというのに。
女はおれからの声を耳にした瞬間、いくらか正気をとり戻したのか、これ以上堪えきれないというように、わっと声をあげてその場に伏せってしまった。
おかげで魅魎の目が、またも女へと落ちる。
「ちィっ」
女に向かって伸びた手を牽制するため、おれはその腕目がけて短刀を投げつけた。短刀は手首にめりこみ、そのまま骨肉を断って向かいの斜面にささる。皮1枚で切断をまぬがれた手だったが、自重に堪えかねすぐに落ちてしまった。
グォオルルゥ?
今何が起きて、それにより自分がどうなったのか、理解できないように魎鬼はのどを鳴らして獣のような声を発したが、それでも数瞬をかけると自分が不便になったのはおれのせいだということは解したようで、再び身をねじっておれのほうを向く。
女を喰うにはまずおれを排除しなければ危険だと判断したのか、今度は完全におれへと標的を移し、一歩踏み出した。
「そうだ……こっちだ。こっちへこい」
魎鬼の歩みに合わせて少しずつ後ずさりする。
戦闘中、誤って魎鬼が女を踏みつけたり、女の上に倒れこんだりすることがないよう十分距離がとれるのを待ってから、おれは鞘から剣を抜いた。




