第3話 抑止の果てに
その朝、世界は静かに息を吹き返した。
《ザルカ渓谷》での衝突から二日後、各国の警戒レベルはようやく通常態勢へ戻された。
発射寸前まで進んだ核兵器は、再び格納庫や潜水艦の奥に封じられた。
公式発表はこうだ――
「誤認による一時的緊張。核戦争の危険はなかった」。
しかし、現場にいた者たちは知っている。
危険は確かにそこにあった。あと数秒で、数億の命が消えていたことを。
セリル・カインは、報道拠点の屋上から街を見下ろしていた。
通りには市場が開き、子どもたちが走り回っている。
人々は自分たちが破滅の縁に立っていたことを、何も知らない。
その無知は救いでもあり、同時に脆さでもあった。
夕方、取材先でマルコ・エルスと再会した。
元戦略司令部の男は、疲れ切った表情で紙コップのコーヒーを握っていた。
「……今回は運が良かっただけだ」
「誤認、ですよね?」
「そう呼ぶことにしただけだ。本当は、もっと危ない綱渡りだった」
マルコは視線を空に向ける。
冬の雲の向こうには、いつでも降り注ぐ準備を整えた無数の弾頭が漂っている。
「抑止は平和を守っている。だがその平和は、引き金に指をかけたままの怪物の寝息だ」
マルコの声は低く、重かった。
「俺たちは、その寝息が乱れないように祈りながら暮らしてるに過ぎない」
夜、セリルは国際報道センターの原稿机に向かった。
原稿の冒頭に打ち込む。
『核は撃たれなかった。しかし、それは平和ではない。永遠の臨界が、今も続いている』。
窓の外には、《リュミナ・シティ》の夜景が広がっていた。
その灯りは美しく、同時に脆く儚い。
セリルは深く息を吸い、キーボードに指を置いた。
明日もまた、この怪物と共に目を覚ますのだ。