第1話 静かなる臨界
真冬の《リュミナ・シティ》は、風までが凍るように静まり返っていた。
街灯が濡れた石畳に光を落とし、遠くの港には貨物船の灯りがぽつりぽつりと浮かんでいる。
だが、その穏やかさは表面だけのものだった。
セリル・カインは、国際報道局の記者室で一枚の衛星写真を見つめていた。
そこには、氷結した北海の奥深くを進む巨大な黒い影――《ヴァルネア》海軍の核搭載潜水艦――が鮮明に写っている。
そして別の写真では、《オルグラ》の内陸部で移動式ICBM発射車両が密林の中を走っていた。
「ここ数週間で、双方ともに配置を変え続けている」
モニター越しに匿名の情報源が語る。
暗い部屋に映し出された地図は、赤と青の点で埋め尽くされていた。
潜水艦、爆撃機、ミサイル基地――それらは互いに睨み合いながら、まるで呼吸を合わせるように動いている。
市民の生活は、いつも通りだった。
カフェの窓から見える通りには、人々がコートの襟を立てて行き交い、子どもたちは学校帰りに笑い声を上げていた。
だが、セリルは知っている。
この静けさは「平和」ではなく、「臨界」に張り詰めた沈黙だと。
数日後、早期警戒網に異常信号が走った。
《アジア連邦》の防衛省が「未確認発射体」を検知。
各国はただちに警戒態勢レベルを引き上げ、核搭載爆撃機と潜水艦が即応配置に就く。
国際報道センターの空気が一変する。
各国首都と前線基地を結ぶモニターが次々と点灯し、短く鋭い声が飛び交った。
セリルはカメラを手に立ち上がる。
世界が今、破滅の淵に足を掛けたことを、誰もが直感していた。
結局、その発射体は気象観測衛星の切り離し部品だったと判明し、事態は収束した。
だが、セリルの胸には冷たいものが残った。
何も起こらなかったのではない。発射寸前まで行って、ただ偶然引き返しただけだ。
窓の外には、冬の港町が静かに広がっていた。
その静寂が、かえって耳鳴りのように重く響いた。