9.
お客さんと話す奥さんの元気な声を聞きながら、定食屋さんの美味しいご飯を食べていたのだが、ふと既に食べ終えていた先生を見ると、人差し指でテーブルをトントンと打ちながらボンヤリしていた。
この指トントン、先生が考えてる時の癖みたい。
新しい一面が知れて、嬉しい!
でも、先生今日はいつもより元気がない気がする。
もしかして、本当は私と会いたくなかったのかな?
私は先生に会えるから、すごく嬉しかったけど、先生は迷惑だったのかな?
悪い想像が頭の中に浮かんできてしまい、浮かれていた気分が急降下していく。
「ごちそうさまでした。」
早く食べ終えてしまおうと夢中で口を動かし、最後の一口を飲み込んで食後の挨拶を済ませると、コートを掴んだ。
先生は私の様子に、一瞬不思議そうな表情を浮かべたけれど、席を立って伝票をキャッシャーに持っていった。
私もすぐにキャッシャーに並んで、先生の次に支払おうとしたら、先生に先に外に出てるように促された。
外でお支払いすれば良いか。
すぐに出てきた先生に用意していた代金を渡そうと思ったら、牡蠣のお礼ですから結構です、と言われてしまった。
「あの、ごちそうさまでした。」
「どういたしまして。」
コートを羽織って駅に向かって歩き出した時、首元の違和感に気がつく。
あっ、マフラー!!!
「先生、すみません。
お店に忘れ物したみたいです。
取りに行ってきます!」
慌ててお店に戻って、さっき座っていた椅子を覗たり、奥さんにマフラーの忘れ物が無かったか聞いたけど、ないと言われた。
あれ?
じゃあ、どこ?
…
もしかして、先生のマンション…?
先生のところに戻って、すみません!と頭を下げた。
「先生のお宅に、マフラーを忘れてきたかもしれないです。」
「そうですか。
では、取りに行きましょう。」
もう一度すみませんと謝って、申し訳なさでいっぱいになりながら、先生の後について行った。
再び先生のお部屋にお邪魔させてもらいソファを覗くと、やはりマフラーが置いてあった。
「ありました!」
「それなら良かった。
今、コーヒーを淹れますから、飲んでいって下さい。」
「いえ、でも、ご迷惑になりますから、もう失礼します。」
「この後、何か用事がありましたか?」
「いえ、無いですけど…。」
「では、座ってください。
少し話をしましょう。」
「はい…。」
話って、何だろう。
先生の元気のないことと関係あるのかな。
でも、先生がわざわざお話しする時間を作ってくれたのは意外だった。
てっきり迷惑がられていると思っていたから。
少し息を吐き出してソファに腰掛けた。
キッチンからコーヒーの良い香りがしてきたので振り向くと、先生は豆からコーヒーを淹れていた。
「先生って、実は丁寧な暮らしをする人だったんですね。」
「うーん、もともとそんなにこだわりは無いんです。
だけどある時、毎日同じことの繰り返しになっていた生活が少し嫌になって。
たまには面倒臭いことをする時間を作ろうとあえてしていたことが、今は趣味になったって感じですね。」
「近くで見ても良いですか?」
「どうぞ。」
対面キッチンから先生の手元を見ていたら、横のボードから好きなカップを選ぶように言われたので、先生には青くてコロンとした形のカップを、自分用には茶色の素焼きのを選んだ。
コーヒーを淹れ終えた先生は、小さな丸皿にクッキー缶から数種類のクッキーを並べている。
「あれ?
このクッキーのお店って。」
「ええ。
この間、佐々木さんから頂いたお店のです。
とても美味しかったので、自分でも買ってしまいました。」
トレーをローテーブルに運びながら、先生はソファに座るように促してくれた。
そして、自分もソファに座り、一口コーヒーを飲んだ先生は、少しだけ居住まいを正すと私の方を見た。
「佐々木さん。
先日は、あなたに失礼なことを言ってしまいました。
すみませんでした。」
まさか先生から先日の話をしてくるとは思わなくて、コーヒーをこぼしそうになった。
カップをローテーブルに置くと、私も先生に向き直った。
「佐々木さんが、僕に好意を持ってくれている事は、とても嬉しく思っています。
ただ」
「歳の差のことは、理由にしないでください。
それだと、全然諦められませんからね!」
先生が、また歳の差を持ち出してこないように先に釘を刺しておく。
「ええ、そう言ってしまった事、謝罪します。
職業柄、元とはいえ生徒に手を出すわけにはいかない、と思っていたのですが、それも自分の考えが硬すぎていたということがわかりました。」
「それは、良かったです。」
先生はもう一口コーヒーを口に含む。
私も一口飲んで、先生の言葉の続きを待った。
「教師として、牽制していたのも事実なんです…。
でも、それだけではなくて、何といえば良いのか。
そうですね、離婚歴があるというのも若い君への負い目になっているというのも理由の一つですし…。
なにより僕は、パートナーを得ない方が良いと思っているんです。」
「え?」
「すみません、訳のわからない事を話していますよね。」
先生は下を向いて、大きく息を吐いた。
「君にこんな事を聞かせるのは間違ってるかも知れませんけれど。」
「ううん。
先生の思ってる事、聞かせて欲しい。」
私の返事に、下を向いていた先生は私に目を合わせてくれたけど、また下を向いてしまった。
「僕はね、多分つまらない男なんだと思います。」
「先生は、つまらない人なんかじゃないよ?」
「それは、君が僕と付き合っていないから、そう言うんだと思います。きっと」
「なんで?
先生、なんでそんな事言うの?」
「僕がこれまでお付き合いした方が、みんな他に好きな人ができて別れるからです。
みんな…、全員です。」
「じゃあ、その中に私は含まれません!」
先生は、力無くふふふと笑った。
「ありがとうございます。
けれど、僕は離婚した時に決めたんです。
もう、これからは一人で生きていくって。」
「そんな悲しい事、言わないでください!」
「ですから、先日あなたに素敵な人を誘って下さいと言いました。」
先生がとても傷ついていると伝わってきた。
「ね、先生。
私、高校で先生と出会ってから、先生がずっと心の中に住んでるんだよ。
大学生の時、ちらっとお付き合いしてみた人は居たけど、先生のこと思い出しちゃって、結局1ヶ月くらいでお別れしてるし、それ以降も誰も好きになんてなれなかった。
ねぇ、先生。
私のこと迷惑って思ってないなら、私を先生の彼女にして下さい!」
その後も、一生懸命お願いしてみたけど、結局先生はうんって言ってくれなかった。
だけど、ダメとも言われていない。
きっと、先生の中で葛藤があるんだと思う。
そして、少なくとも私は先生に嫌われてはいないと思う。
だったら、やっぱり頑張り続けたいし、頑張るしかない!!!
少しだけ、希望が見えた気がした。
***********
"今日もお疲れ様でした〜!
私は今日、職場でミスをしてしました。
先輩が気付いてくれて事なきを得ましたが、猛省中です。"
毎晩夜10時台は、先生にメッセージを送る時間と決めて、あれから毎日送っている。
先生からの返信なんて期待しないで、何でもないことを一文か二文くらい送り続けるつもりだった。
だけど、やっぱり先生は真面目な人だから、返信をしないという選択肢は無かったようで、毎回必ず返事をくれる。
先生の話を聞いて、先生が深く傷ついていて、恋愛には前向きになれないって事、凄くよく分かったから、今は先生とメッセージのやりとりができる事だけでも幸せだ。
しかし、明日はやっと待ちに待った休日!
毎日のメッセージだってとても心弾むイベントだけど、休日の1日くらい、いや、休日の1日のうち1時間くらいでもいいから、先生に会いたい。
だから、毎週の金曜日は先生を誘ってみるって決めていて、週の初めから今度はどこに誘おうか、なんて誘おうかとずっとワクワクドキドキしているのだ!
"先生、明日か明後日、お時間ありませんか?
今、美術館で古典絵巻展やってますけど、一緒にいかがですか?"
この古典絵巻展、実は結構前からやってるから、既に先生は見にいってるかも知れないけど、話のきっかけは何だって良い。
これまでにも、先生のお家はとてもオシャレだったから、インテリアショップやショールームに適当な理由をつけて誘ったし、先生は甘いものが好きだから、スイーツ巡りにも誘った。
だけど、どれも断られている。
しかし、私はめげない!
断られるのなんて、想定済みだ。
頭の中で、次の行き先について色々想像していると、返信音が鳴った。
"その展覧会は、既に見に行ってしまいました。
しかし、本当に素晴らしかったので、佐々木さんも是非見たほうが良いですよ。"
くっ!
やっぱり今回も断られちゃったか…
"先生だったら絵巻の解説とかしてくれそうだったのに〜!
でも分かりました。
明日、一人寂しく見てきます。"
"言い方にトゲがありますね?"
"良いんです、良いんです。
本当は、先生の解説なんて高校卒業以来一度も拝聴してないので、これを機会に是非伺いたいと思っていたなんてのは、わたしの勝手な思いなので。"
あれ?
もしかして、イヤミなメッセージになっちゃったかな???
先生、面白い感じで受け取ってくれたかな?
会って話せていたら気にならない事も、文字だと相手にどう受け取られるかわからないから、心配になる。
"先生、ごめん。
さっきの、嫌なメッセージだったかな?
ただの軽口ですよ!?"
先生の返事が来る前に、慌てて追加でメッセージを送る。
"佐々木さんが軽い冗談のつもりで送った言葉だと分かっていますので、安心して下さい。"
良かった。
お誘いは断られてしまったので、明日は一人で展覧会を見に行って、感想を先生に送ろう。
翌日は、朝昼兼用のご飯をお家で食べて展覧会に出かけた。
思っていたよりも多くの人が見にきていたけれどゆっくり見て回れたし、絵巻物はどれも美しくてとても素敵だった!
最後には大好きなミュージアムショップを覗く。
本当は図録が欲しかったけど予算オーバーなので、お気に入りの絵が載っているポストカードを数枚と雅なペンを買った。
まだ帰るには少し早い時間だし、折角なので併設されているカフェにも寄る。
案内された席に座った時、携帯をマナーモードにしていた事を思い出したので解除しようと鞄から取り出すと、さくらちゃんからメッセージがきていた。
珍しく思いながら開くと、大きなびっくり顔の絵文字が現れた。
そしてその下の文章を読んだ時、えっ?と声が出てしまった。
"月乃書店のカフェスペースで福ちゃん発見!"
"ビックリなんだけど、誰といると思う?"
"一緒にいるの、真琴さんだった。"
福島先生が真琴さんと一緒に居るなんて信じられない。
あんなに辛そうな顔していたのに。
メッセージの送信履歴を見ると、10分ほど前に送られてきたメッセージだ。
月乃書店なら、ここから急げば15分ほどで行ける距離にある。
慌てて鞄とコートを掴んでカフェを後にした。