10. Side.透
"日曜日、先生のご自宅にあった様なランプを見に行きたいのですが、付き合ってもらえませんか?"
"とても美味しそうな期間限定スイーツがあります。
絶対先生が好きだと思います!
お休みの日のどちらかで、行きましょうよ。"
"オシャレなショールームがあると同僚に聞きました。
明日か明後日、お時間あるなら一緒に見に行ってみませんか?"
"先生、明日か明後日、お時間ありませんか?
今、美術館で古典絵巻展やってますけど、一緒にいかがですか?"
おかしいな。
今後はもうパートナーを作る気は無いと伝えたはずなのに、佐々木さんからは毎日のメッセージと金曜日には休日のお誘いのメッセージが届くようになった。
正直、毎日のメッセージを楽しみにしている自分がいるし、休日のお誘いに毎回断りを入れるのも罪悪感が増している。
自宅で彼女と話をした時は、彼女との付き合いは今日で最後になるだろうと思った。
そのつもりで僕の気持ちを伝えたつもりだ。
臆病なのは自分でも重々承知しているが、心から愛した人が、まだ自分との関係を終えていない段階で、他に好きな人ができるというあの虚しさを、もう二度と味わいたくない。
佐々木さんのことはとても可愛らしい人だと思っているし、高校生の頃と変わらない純粋さを持ちながら、大人の女性らしい表情や仕草を身につけたもんだから、会うたびに目が離せなくなっていた。
だからこそ、怖いのだ。
心を寄せた相手に裏切られるのはもう充分だ。
ため息をつきながら、佐々木さんのメッセージに断りの文句を打ち込んだ。
特にやることもない休日、家にこもっているのも勿体無い気がして、簡単に家事を済ませた後は街をうろつくことにした。
丁度、好きな作家の新刊が発売されたはずなので、まずは大きな書店に行って、その後は映画でも観ようと予定を立てる。
携帯で公開中の映画と上映時間を調べてみると、先に映画を観た方が時間的に良さそうだったので、まずは映画館に向かうことにした。
今回選んだ映画は小説が原作のミステリーだ。
それをどう映像にしたのか興味があったのだが、やはりプロの役者さんが演じると、目で文章を追っていた時と雰囲気が変わって面白かった。
たまに文として読んでいた方が面白く感じる映画もあるが、今回のは僕的には観てよかった映画だった。
映画の余韻を感じながら、次の目的地の書店へ向かおうと信号待ちをしていた時、後ろから肩を一つ叩かれた。
「お久しぶり、かな?
1年ぶり?」
振り返った先にいたのは、真琴だった。
真琴の手には、さっき僕が観た映画のパンフレット。
「さっき出口のところで透さんを見かけて。
声、かけない方が良いかとも思ったんだけど。」
「…ああ、君も観に来てたんだ。
そういえば、君の好きな俳優が出ていたね。」
驚き過ぎて、言葉を探すのに苦労した。
信号が青に変わったので、それじゃあと言って歩き始めたのに、真琴は隣に並んで話し続ける。
「この映画、原作も好きだし楽しみにしてたのよ。
透さんに、この小説お勧めしてもらったのよね。」
真琴はなんで話し続けているんだろう。
元夫なんて、普通顔も見たくないんじゃないだろうか。
少なくとも僕は、元妻と仲良く話をするなんて出来ない。
「せっかく面白い映画を観たのに、感想を言い合う相手がいないってつまらないと思っていたの。
ねぇ、カフェに行かない?
私、もう少し話したいの。」
「悪いけど、僕は遠慮するよ。」
「そんな事言わないで。
あ、どこかに行くつもりだった?」
「本屋。」
「月乃書店?
丁度良いわ、あそこカフェもあるじゃない。
ね、ちょっとだけだから付き合って。」
いつもよりお喋りで強引な真琴につられて、そのままカフェに来てしまった。
飲み物を受け取って席についた後も、真琴が映画の感想を話し、僕は気のない返事を返す。
そんな会話を長々と続けていたが、真琴は突然言葉を切った。
訝しく思いながら彼女へ顔を向けると、真琴はじっと僕を見ていた。
「何?」
「透さん。本当はね、今日映画館で会ったの偶然じゃないの。
私、今日透さんのマンションに行ったの。」
「…なんで?」
「話がしたくて。
エントランスに着いたところで透さんが出てくるのが見えたから、ついてきちゃった。」
喉が渇く。
アイスティーを一口飲むが、ほとんど味がわからなかった。
「私、後悔してるの。
別れなければ良かったって。
ねぇ、やり直せないかな、私たち。」
「なに、言ってるの…」
「私にはやっぱり透さんしかいない。
お願い、もう一度チャンスをくれない?」
「やめろよ」
「だって、私たち仲が悪くて、お互い憎み合って別れたわけじゃないでしょう?」
「…」
「離れて気付いたの。
私のこと、一番理解してくれるのは透さんしかいなかったんだって。」
怒鳴りたかった。
何を勝手なことばっかり言っているんだって。
憎み合って別れたわけじゃないかもしれない。
だけど夫婦として一番大切な信頼を、壊したじゃないか。
腹の底が熱かった。
だけど、感情のまま話す事はできないので、大きく息を吐いた。
「僕は、もう君を大切に思ってないよ。」
僕に否定されるとは思っていなかったのだろうか、真琴は口元を歪めた。
「あんなに愛してくれたのに?
たった1年で、忘れちゃったの?」
もう何も話さないでほしい。
僕に酷い言葉を言わせないでほしい。
もう一度、大きく息を吐く。
「君は、好きな人ができたと言って、離婚届を置いて出て行った。
君こそ、1年前に言った事忘れたの?」
「だから、あれは!
あれは、私の間違いだった。
だけどあの時、透さんが、もっと私に関心を持ってくれていれば、あんなことにはなってなかったのに!」
頭が痛い。
目の前ですがるような顔をして捲し立てて話している人は、本当にかつて愛した人と同一人物なんだろうか。
彼女が僕を見る目を見ればわかる。
これは、僕を想ってくれている目じゃない。
僕を想ってくれている目は…。
「これ以上、この話を続けるつもりは僕には無いよ。
終わらせたのは君だし、僕もそれに同意したんだ。」
「ねぇ、本当にもう私のこと何とも思ってないの?」
僕は席を立ってから、真琴に告げた。
「ああ。
だけど僕の事、何とも思ってないのは君の方だよ。
そして、君が助けを求めてる相手も僕じゃない。
さようなら、真琴。」
そのまままっすぐ建物を出ることにする。
歩みを止めたくなくて、エスカレーターやエレベーターは使わず、階段で1階まで降りる。
書店は7階だけど、構うものか。
胸の中のモヤモヤは、歩みを止めてしまったら体中に広がりそうだった。
半分小走りで階段を降り切って、そのまま外に出た。
電車には乗らす、いっそこのまま歩いて帰ろうか。
大股で歩きながら、そんなことを考えていたら携帯が鳴った。
真琴からだろうと思い、無視して歩き続けたが、一度切れた着信音が再び鳴り始めたので、仕方なく携帯を取り出した。
【佐々木さん】と表示された携帯を見て、歩く速度が少し落ちる。
「もしもし」
『ハァ、ハァ…、センセっ、ちょ、止まって。
早…』
「え?」
『うしろっ、ハァ、ハァ』
後?
足を止めて振り向くと、30メートル程後ろから佐々木さんが走ってくるのが見えた。
息を切らして、僕の側まで走り切った佐々木さんは言葉を話すのが辛そうだ。
荒い息を吐きながら、僕の袖を掴んだ。
「ハァ、ハァ、センセ、大丈夫?」
「僕は大丈夫ですが、どうしてここに?」
正確には、たった今大丈夫になったのだが。
佐々木さんの姿を見たら、さっきまでのモヤモヤが霧散していた。
まだ息が荒い佐々木さんは顔をあげて、僕を心配そうに見てる。
「現代の、SNSの力を、甘く見ては、いけません。」
なるほど、目撃者がいたか。
黙ったまま佐々木さんを見ていると、佐々木さんは益々心配そうな顔をする。
そう、この目。
僕を心から想っている目。
彼女は、これまでの人達とは違うかもしれない。
彼女なら、もう一度信じてみても良いかもしれない。
***********
「お邪魔します…」
「どうぞ。
ソファに座ってて下さい。」
心配そうにしている彼女を夕飯に誘ったら、いつもの定食屋に行きたいと言う。
ただ定食屋が夜の営業時間になるまでまだ少し時間があるので、自宅マンションに来てもらった。
さっきから聞きたい事があるのに聞けないという顔をしながら、飲み物を準備している僕をチラチラ見てくる佐々木さんに、助け舟を出すことにした。
「今日、僕は映画を観に行ったのですが、偶然前の奥さんも同じ回を鑑賞していたらしく。
佐々木さんは、どうしてあの場所に?」
佐々木さんは肩をビクっとさせて、僕を振り向く。
「あの、あの…、先生が元の奥様とカフェにいるとの目撃情報が送られてきまして。」
「それを確かめに?」
佐々木さんは立ち上がって、キッチンカウンターまで来た。
「いえ、先生が悲しい思いしてたらどうしようって思ったら、つい…」
「それで来てくれたの?」
コクンと頭を縦に振った佐々木さんに、紅茶の入ったカップを渡す。
「ふふ、ありがとうございます。
本当はね、佐々木さんが電話をくれた時、結構荒れてたんです。
だけど、君の顔を見たら毒気が抜かれました。」
佐々木さんはキョトンとしたあと、パァっと花が綻ぶように笑った。
「お役に立ったなら、嬉しいです!」
参ったな、可愛い。
彼女を再びソファに促した後、書斎の本棚から彼女が誘ってくれた古典絵巻展の図録を持ってきて、隣に座った。
「これ!私も買おうと思ったんですけど、予想以上に高くて買えなかったんです。
見ても良いですか?」
「ふふ、どうぞ。
解説も興味深いですから、ゆっくり読めるようにお貸ししますよ。」
「わー、ありがとうございます。
じゃ、お借りしますね!」
しばらく彼女がパラパラとめくる図録を一緒に見ては、この図案が素敵だとか、こっちのもキレイだなどと話していたが、古典文学を題材にした巻物のページで、彼女は図録を見ながら質問をしてきた。
「先生、特別な一冊の話をしたの、覚えてますか?」
なぜ国語教師になったのか聞かれた時の事だ。
「ええ、覚えています。」
「実は、あの後2冊、お気に入りの本が見つかったんです。」
彼女は一瞬僕を見て、また図録に視線を戻した。
「その一冊がね、この絵巻の題材の古典文学なんです。」
「そうですか。」
「はい。
先生、言ってたでしょ?読み返すたびに気になる文章が変わったりするって。
私もね、この作品を読む度に、前回は普通に流していた文章が気になったり、泣ける場所が変わったりするの。
だから、何回でも読んじゃうし、何回読んでも新しいって思えるんです。」
「それは確かに、佐々木さんの特別な一冊ですね。」
「うん。
もう一つはね、今も鞄に入ってるんだけど、女流作家さんの本なんです。
これはね、私の心の中を覗いたのってくらい共感できて、しかも私の中では言葉になっていなかった感情がきちんと文章になってて、凄いの。
だから、これも私の特別な一冊なんです。」
彼女が鞄から取り出した文庫本は、賞を受賞したこともある女流作家の作品だった。
僕もこの作家の本は何冊も読んだが、確かにどれも面白く、ほとんどの作品が本棚に入っている。
「教えてくれて、ありがとうございます。
じゃあ、僕の特別な本を持ってきますね。」
僕が本棚から取り出したのは、必ず教科書に名前が出てくる文豪のものだ。
ただ、その文豪の代表作ではないから、タイトルを聞いてもわからない人が多いと思うが、隠れた名作だと思っている。
「これ、読んだことない…。」
「貸しましょうか?」
佐々木さんは、嬉しそうに僕を見て頷いた。
高校生の頃の約束をずっと忘れないでいてくれたのだなぁと思ったら、胸がチクチクした。
夕飯を食べた後、まだそれ程遅い時間ではないから大丈夫だと当たり前のように駅に向かう彼女に、電車を降りたら連絡するように言って見送る。
はにかんで微笑む姿を見ると、安心どころか余計心配になった。
今日、真琴と再会して一つだけ良かったのは、佐々木さんに対して確かに愛おしく思う気持ちがあるとわかった事だろう。
今だって、本当は家まで送ってあげたい。
だけど、中途半端な気持ちのまま、中途半端な行動をとるのは間違っているから。
改札を通り、人通りの邪魔にならないところまで移動した佐々木さんが振り向いて手を振ってきたので、振り返した。