エピローグ(理想の陽菜エンド)
……選んだのは、「理想の陽菜」だった。
病室の中は静かだった。
機械の音が一定のリズムを刻み、白いカーテンが微かに揺れている。
ベッドの上には、変わらず眠り続ける病床の陽菜がいた。
健太はその顔をじっと見つめる。
何度も、何度も考えた。
——病床の陽菜を選べば、目の前の陽菜は消える。
——理想の陽菜を選べば、このまま彼女は目を覚まさない。
答えは決まっていた。
いや、もう決めなければならなかった。
「——ごめんな」
病床の陽菜の手をそっと握る。
その細くてか弱い指は、どこか冷たかった。
「俺は、”今の陽菜”と生きるよ。」
ーー理想の陽菜。
健太と共に笑い、健太と共に歩み、誰よりも健太を愛してくれた少女。
彼女を、否定することはできなかった。
——その瞬間、病室の気配が変わった。
機械の音が止まる。
窓から吹き込む風がぴたりと静まり、時間そのものが凍りついたような錯覚を覚える。
健太はそっと陽菜の手を離した。
「ありがとう、健太くん」
振り返ると、そこに立っていたのは理想の陽菜だった。
彼女は穏やかに微笑みながら、健太をじっと見つめている。
「——これで、私は“私”になれる」
瞬間、病室が光に包まれた。
⭐︎
それから数ヶ月後——。
健太は剣道の全国大会を制し、名実ともに“神童”と呼ばれるようになった。
彼の強さは群を抜いており、全国レベルでも敵なし。
しかし、それ以上に話題になっていたのは、彼の隣にいる少女だった。
「すごいね、健太くん!」
輝く笑みを浮かべた陽菜が、まるでヒロインのように隣にいる。
彼女は完璧だった。
美しく、聡明で、明るく、そして何より——健太を心から愛してくれている。
健太の人生は、誰が見ても成功に包まれていた。
最強の剣士として、最高の少女と共に生きる。
陽菜の両親も、彼女が完全に健康を取り戻したことを心から喜んでいた。
「まるで奇跡だ」と何度も口にし、今では病院にいた頃のことなど、まるで遠い昔の話のように語る。
いや——むしろ、陽菜が病床にいた記憶はもはや失われていた。
病室のベッドに横たわっていたもう一人の陽菜のことなど、誰も覚えていない。
医者のカルテにも、病院の記録にも、そんな存在は最初からなかったかのように消えていた。
——本当に、すべてが理想通りだった。
——けれど。
「……なあ、陽菜」
「なに?」
「お前は、幸せか?」
唐突な問いかけに、陽菜は一瞬きょとんとした。
だが、すぐに輝く様な笑顔を浮かべる。
「もちろんだよ!健太くんと一緒にいられるんだもん!」
彼女の笑顔は、確かに本物だった。
それでも——どこか違和感があった。
「……そうか」
健太は空を見上げる。
澄み渡る青い空。
雲ひとつない、完璧な空。
——それは、まるで。
作られた閉じた世界のようだった。
⭐︎
陽菜がいた病室のベッドは、空になっていた。
誰もいない。
まるで最初から存在しなかったかのように、そこには何もなかった。
そして、それに気づく者も——
もう、どこにもいなかった。
窓の外。
沈みゆく夕陽を背に、一羽の黒い鳥が木に止まってその病室を眺めていた。
バサッ!
暫くして、鳥は飛び立つと、そのまま夜へと溶けるように消えていった。




