日常編2(高校生活の幕開け)
朝の通学路。健太はいつものように歩いていた。
「すみません!どなたか!」
ふと見ると、交差点の先で、スーツ姿の男性が困惑した顔で立ち尽くしている。
(……嫌な予感がする)
見て見ぬふりをすれば、普通に学校に行ける。しかし、無視するのは気分が悪い。
「どうしました?」
「財布を落としてしまって……確か、このあたりで」
「それは大変ですね。どんな財布ですか?」
「黒い革の二つ折りで、中には免許証と——」
そのとき、曲がり角の先から、小走りでやってくる少年の姿が目に入った。手には黒い二つ折りの財布。
「それ、君のか?」
「えっ、あっ……これは……」
少年の表情が一瞬こわばる。
健太は確信した。
(これ、絶対ややこしくなるやつだ……)
☆
混雑する朝の電車。健太は吊革につかまりながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。
そのとき、異様な空気を感じる。
近くに立っていた女子高生が、青ざめた顔で身じろぎもせずにいる。
(……おいおい、またかよ)
彼女の隣には、中年の男。微妙に腕が動いている。
健太は、一度だけ深く息を吐いた。
「すみません、ちょっと失礼」
あえて強引に間に割り込む。
「……ッ!」
男の手が、咄嗟に引っ込んだ。
「何だ、君は?」
「狭いんで、詰めさせてもらいますね」
男の顔が険しく歪む。だが、次の駅で彼はそそくさと降りていった。
女子高生が、震えた声で「ありがとう」と言った。
☆
次の日から、彼女は、なぜか健太の乗る車両に合わせてくるようになった。
「健太くん、好きです!」
放課後、校門の前。突然の告白。
「えっ、いや……あの……」
困惑する健太。告白してきたのは、電車で痴漢から助けた女子高生だった。
「お礼がしたくて、探してました!」
「気持ちはありがたいけど……」
健太は苦笑しながら返すが、彼女は真剣なまなざしで続ける。
「私、本当に運命だと思ったんです。あの時、健太くんが助けてくれなかったら……!」
「いや、困ってるのが見えたから、普通に助けただけなんだけど……」
「でも、私にとっては違うんです! あんなふうに颯爽と助けてくれて、まるで——」
彼女は目を輝かせながら言い切った。
「——王子様みたいでした!」
(王子様!?)
健太は思わず心の中で頭を抱えた。
そして、その日から——
暫くの間、健太のあだ名は「王子様」となり、助けた彼女は健太のことを「運命の人」だと信じ込んで、なぜか校門前で待ち伏せするようになった。
(何でこうなるんだよ!!)
☆
そんなトラブル気質の健太にとって、4つ上の兄・久住渉は昔から「何でも知っていて、色々なことを教えてくれる頼れる兄貴」だった。
渉は高校3年の時、サッカーの試合中に大怪我を負い、それ以来自己評価が低くなった。
その分、他者への評価が相対的に高くなる所はある。
しかし、それでも兄は昔から健太に対して 「健太は俺なんかよりずっと凄い男になる」 と言い続けてきた。
健太自身は、自分のことを「特別な才能があるわけじゃない」と思っていたが、兄のその言葉には不思議に説得力があった。
兄には「人を教え導く力」がある、と健太は常々思っている。
——兄ちゃんだって十分凄いと思うけどな。
渉は怪我をして以降、サッカーの道を諦めたが、その後は名の知れた大学に進み、勉強やバイトに打ち込んでいる。
兄は国民的女優・高宮裕奈と小・中学校が一緒だったらしい。
高宮裕奈といえば、今やテレビや映画で見ない日はないほどの超人気女優。
その彼女が、兄貴の同級生だったというのは、ちょっと驚きだ。
そういえば、昔……
まだ自分が幼稚園に通っていた頃、兄の同級生の女の子が家に遊びに来たことがあった。
明るくて優しくて、でもどこかキラキラした雰囲気を持った女の子。
あの時の女の子が、あの国民的女優・高宮裕奈だと知ったのは、つい最近のことだった。
とはいえ、兄とは今でも普通に話すし、仲は良い方だ。
むしろ健太は、密かに兄のことを 「昔も今も、やっぱり凄い人だ」 と思っていた。
☆
春の陽射しが降り注ぐ校門の前。
新入生たちが緊張と期待を胸に、それぞれの道を歩き始める。
久住健太もその一人だった。
とはいえ、特に緊張しているわけでもない。
「まあ、高校って言っても中学とそんなに変わんないだろ」
のんびりとした足取りで、新しい学校へと踏み入れる。
入学式を終え、新しい教室で自分の席に座った。
少し緊張しつつ、机の中に適当に荷物を押し込む。
——と、その時。
前の席の男子が、くるりと振り向いた。
「よっ」
飄々とした声とともに、細身の男がニコニコしながらこちらを見ている。
「俺、九条明。よろしくな」
「……ああ、よろしく。俺、久住健太」
「へえ、出席番号順に並んで同じ“く”だから俺の後ろの席なのか」
明は妙に納得したように頷くと、口元に軽く笑みを浮かべた。
「ちょうどよかった」
「ちょうどよかった?」
不思議に思って聞き返すと、明は肩をすくめる。
「いや、俺さ、後ろの席のやつがどんなやつか気になってたんだよね」
「そんなもんか?」
「そんなもんさ」
健太は適当に相槌を打ちつつ、九条明――もとい明のペースに巻き込まれつつあることを感じた。
「でさ、久住はどこの部活入るんだ?」
「ああ、剣道部かな。小学校からやってたし」
「おっ、奇遇じゃん。俺も剣道部入るつもりだったんだよ」
「へえ、そうなのか」
「うん。……ま、ガチでやるつもりはないけどね」
「おいおい」
初対面にもかかわらず、どこか気の置けない雰囲気が漂う。
こうして、健太と明の高校生活は幕を開けた。
健太の兄の久住渉は拙作「二人で輝くとき」の主人公です。
この時はまだ高宮裕奈のマネージャー補佐になっておりませんが、健太と話して最近同級生であることをしゃべってます。