噂のイリス嬢
スティア魔法学院の寮は大きく分けて三つ存在する。
男子専用の【ソレイユ寮】、女子専用の【ルーナ寮】、そして王族とその血縁者、従者、護衛のみが入寮することができる王族専用の【ステラ寮】がある。
ステラ寮の自室を出て朝食の為にサロンへ向かえば、使用人が頭を垂れ扉を開けた。サロンにはエドガーとアルバートの姿がある。俺が来たと分かると立ち上がり、形式的だが胸に手を当て敬礼をした。学院内ではしなくていいと言っているが、他の者に示しがつかないと言われればその通りでもあったので好きにさせている。
「おはようございます、クライス様」
「ああ」
席に着くと、彼らも席に座り直した。使用人達が素早く丁寧に朝食を準備する。それもその筈、彼らは本来王城で働く使用人達だ。給仕に関してはプロフェッショナルといっても過言ではない。母である王妃の意向で王城から使用人を連れていくことになったが、生活環境が著しく変わることがなく助かってはいた。色々と思うところはあるが。
「クライス様、朝から申し訳ありませんが一件ご報告が」
言外になんだ、と視線でアルバートに問えば、彼は世間話でもするかのように流暢に話した。
「王族の遠縁の血縁者と名乗る特別科の生徒がステラ寮への入寮を希望しておりますが」
話の内容に耳を傾けつつ、出されたクロックマダムにナイフを入れた。半熟の黄身がとろりとあふれていく。今日のシェフもいつも通り申し分ない朝食を用意してくれた。
「退学といたしました」
アルバートの報告にそうか、と返し切り分けたクロックマダムをフォークで口に運んだ。程よい酸味とコクのあるソースだ。素晴らしい。
「またかよ。王族の血縁者がそんなポンポンいるかっての」
「いつものことだろう」
「いつもあっては困るんですがね」
文句を言うエドガーの言う通りであるし、アルバートの言うことも尤もだ。ただ、いつものことなのである。ステラ寮へ入寮し、王族一族やその周囲と懇意にしたい…率直に言えばコネが欲しい奴らが、王族と遠い血縁者であるなど何かしらの理由をつけてステラ寮への入寮や転寮を希望している。真偽を確かめ、本当に可能性のある者だけを報告しろとアルバートに伝えてはいるが、今のところ虚偽の報告以外受けたことはない。
退学処分に関しては学院側の了承も得ている。王族へ嘘を述べたのだから、退学になるだけで済むことにむしろ感謝するべきだろう。これが陛下の面前なら国外追放は免れない。
「そんなにステラ寮入りたいかぁ?」
「ステラ寮に入りたいわけではなく、王族との関わりが欲しいんですよ」
それはわかるけど、とエドガーがナイフとフォークをようやく持った。こちらはもう食べ終わる頃合いだというのに。遅ければ置いていくので構わないが。同じようなタイミングで朝食を終えたアルバートが、食後のコーヒーの香りをふわりと味わった後、静かに呟いた。
「ステラ寮の生徒でなければ、フェリス王子にはお会いすることも叶いませんからね」
その言葉には、口数の多いエドガーも何も言うことはなかった。単純だが賢い男だ。
「あと15分で出る」
「え!?俺まだ半分以上残って…!!」
慌ててクロックマダムを切り分けるエドガーに呆れた視線を送るアルバート。
まったく、と思いつつ居心地のいい空間。王城の中では味わうことのできないこの穏やかな空気こそ、俺が気に入っているいつも通りの日常。
の、はずだった。
「あ、おはよ。昨日はお疲れさま~」
「……は?」
早朝、まだ他の生徒達の姿がほとんどないこの時間に登校するのが習慣だ。人気のない時間を選んで行動するのは警戒の意味もある。だというのに、特別科の校舎である特別棟に向かって歩いていると、昨日剣を交えた少女が廊下の曲がり角からひょいっと現れ片手をひらひらと振ってこちらに、正しくはエドガーに近寄ってきた。
彼女の突飛な行動に呆気にとられているのは俺だけじゃなく、アルバート、エドガーも同様に口を開けて彼女を見ていた。俺は口など開けていないが。
こちらの反応に不思議そうな顔をした彼女は、ようやく自分の行動が不味いことに気付いたのか、ハッとして一瞬で廊下の壁に下がった。悪くない動きだが、その前の行動が悪すぎる。
「ごめんまたマナー違反した!壁に寄るんだった!」
「………」
こちらに聞こえるようになのか、少し張り上げた声が彼女の馬鹿さを際立てているような気さえして呆れてしまい、数々の非礼にも怒りさえ湧いてこない。
「エドガーって王族の人?」
「いや、俺は違うけど…」
「じゃあエドガーと話したい場合はどうしたらいい?」
「クライス様と一緒にいない時に声かけてくれれば…」
「それ仲間外れにしてるみたいで失礼じゃない!?」
「た、たしかに」
確かにじゃない、とエドガーを見れば複雑そうな顔で思い悩んでいた。単純すぎるだろう。はあ、とため息を隠さずに溢せば、彼女は伺うようにこちらを見た。その視線に気付いて顔を上げれば透明感のあるペリドットの瞳と視線が合う。よく考えればイルーナ王国にあの純度の高い黄緑色の瞳は珍しい。
「ねえ、そもそも声をかけるのは不敬にはあたらない?」
「……内容次第だな」
これが学院の外ならば不敬罪として捕らえることもできるだろう。平民が許可なく王族に声をかけることは禁じられている。貴族階級以上の者でさえ断りを入れるのがマナーといえる。勿論、知人や知り合いは例外ではあるが。
しかし、この国を統べる者として王族への好感度というものも見て見ぬふりはできない。それ故に学院内では王族や貴族階級が、校舎は違えど平民と同じ廊下を歩き互いに声をかけられる環境が用意されている。各寮にも貴族階級専用フロアが存在し、明確な身分の差はあれど一切の関わりを断つことがないよう考えられている。
民あっての国であることを忘れてはならない。歴代陛下のお考えあってのスティア魔法学院だ。
物思いに耽っていると、彼女も何か考えていたのか、顎に手を当てながら尋ねてきた。
「じゃあこうやって廊下の脇から話しかけるのはオッケーってこと?」
ここで許可を出せば此奴は本気でやりかねないだろう。想像するだけで眩暈がする。そんなあほらしい光景を他の生徒達に見られては王族としての沽券に関わる。
「………声をかけるなら、普通にしろ」
「あ、ほんと?ありがと~。助かる!」
それじゃさっそく、と壁から離れこちらに近づいて来た彼女を理解しがたい目で見てしまう。なんの躊躇もなくよくもまあ図々しく近づいてこれるものだ。普通の平民であればこちらが何も言わなくとも一定の距離以上近づこうともしないというのに。
「改めておはよ、エドガー。それからえっと…」
「アルバートと申します」
「アルバートね!おはよ!」
「おはようございます」
「お、おはよ」
アルバート、エドガーとそれぞれ挨拶を交わした彼女は俺の斜め後ろで状況を理解できていないであろうエドガーに声をかけていた。
「エドガーまだクライスについてくの?あ、クライス様」
「ついてくって…護衛だよ護衛!教室までお送りするんだよ」
「なーんだ。一緒に騎士科の校舎行けると思ったのに。まあいいや、また後でね〜」
手をヒラヒラと振り、こちらに一礼することなく廊下を歩いていくイリスの背中を視線で追う。エドガーも彼女の背中を視線で追いながら、信じられないと言いたげにぼやいた。
「よくもまあ王族って分かっててあんなフランクに…」
彼女が王族の存在価値を全くわかっていない証拠だ。
その理由は、と信頼する側近の名を呼ぶ。
「アルバート」
「ええ、調べましたよ」
ジェフ卿の推薦である前代未聞の問題児『噂のイリス嬢』について調べろと命じたのは昨日、闘技場を後にした時だったのだが、アルバートのことだ。恐らくいずれ俺が調べろと命じると先読んで調べていたのだろう。昔から抜け目のない男だ。
「彼女はイルーナ王国の南東に位置するキースウェッジ村のブランディーユ教会で孤児として生活していたようです」
「キースウェッジってジェフ団長の故郷じゃなかったか?」
特別棟へ向かい歩きながらアルバートの調査結果に耳を傾ける。エドガーの質問に答えながら彼は話を続けた。
「ええ。王都から離れた小さな田舎町です。そこから少し離れた大きな湖のほとりにブランディーユ教会があり、ジェフ卿は村や教会へ定期的な支援を行っているそうです」
「なるほどな。だからイリスと団長が顔見知りになったってわけか」
ジェフ卿が孤児達に運動の一環として剣の稽古をつけているらしいという噂は昔から聞いていた。孤児の将来の可能性として、才能ある者を騎士団にスカウトする目的も含まれているとも。イリスは恐らく、ジェフ卿が目を付けた才能ある者だったのだろう。しかし魔法があまりにも不得意だった。そこでスティア魔法学院に入学させ、魔法の基礎から学ばせようとしたのかもしれない。
「キースウェッジは王都から随分と離れていますし、隣国アルディハイトの国境付近でもあります。教会育ちであれば世間の声を聴くことも少ない。思想や政治についての関心が薄いのはそのせいもあるでしょう」
彼女は世間知らずなのだろう。だから非常識で礼儀知らず。無知は罪だ。知らなかったで許されないことがこの世には溢れるほど存在するということを、幼い頃から痛い程この身に味わってきた。
「とりあえずエドガー、彼女にせめてクライス様のお名前を呼び捨てしないよう…」
「いい。好きにさせておけ」
「クライス様?」
不思議そうにこちらを伺うアルバートにそれ以上何も言わずにいると、真意を推し図ることを諦めたのかそれ以上何かを言ってくることはなかった。
剣を交えた昨日、最後の瞬間。
目の前で飛び上がり、まるでマントを羽のように羽ばたかせ宙を舞う彼女を見上げると、眩しい太陽を遮ったイリスの影に覆われた。影の中で異様なほどの輝きを放つペリドットの瞳に一瞬目を奪われ、気付けば背中に剣を突きつけられていた。
無知は罪だ。けれど分かっている。彼女は何も悪くなどないのだと。分かっているけれど、分かってはいけない。運命から逃れることも向き合うこともできないでいる自分を心の中で嘲笑うと同時に、無知な彼女が羨ましいと皮肉にも近い思いを抱いたのだった。
好きに呼べば良い。
好きに話しかければ良い。
程なくしてこの判断もあの人の耳に入るだろう。あの人にとってはこの程度、気にする価値もない些細なことかもしれない。
それでもこれは、俺にとっては大きな意味がある。運命に抗うことを許されない俺に出来る最大限の惨めな反抗だった。