手を取り合って
学院祭が終わりを告げ、残すところ明日の後夜祭のみとなった生徒たちが後片付けに奔走している最中、ステラ寮のクライスの部屋では夜風が薄いカーテンを揺らしていた。淡い月光が差し込み、机の上に置かれたランプが、二人の影を壁に長く映している。
イリスはアルバートを介してクライスに呼び出されていた。理由は聞かされておらず、呼び出しを受けてから胸の奥がずっとざわついている。気付いた途端に終わった失恋を自覚したばかりだ。勝手に気まずさを覚え、断ろうとしたが重要な話だから、と念を押されこうしてクライスの自室を訪れていた。
「話って、なに?」
声をかけると、クライスは椅子に座ったまま書類から顔を上げた。いつもの冷静な表情──けれど、どこか思いつめた気配があった。
イリスの声は静かだった。けれどその奥には、あの光景がまだ痛みのように残っている。クライスの隣にいたミーナ。あの洗練された上品な佇まい。お似合いと言わざるを得ない令嬢。思い出すだけで胸が締めつけられる。
クライスは小さく息を吐き、机の上の書簡を閉じた。
そして、真っすぐにイリスを見た。
「……お前を、俺の護衛に任命する」
「え……?」
イリスの目が丸くなる。
「護衛って……それ、どういう──」
初めてまともに会話を交わした騎士科一年生による決闘の決勝後、ジェフによる「イリスを護衛に」という提案を断った張本人から今度は護衛につけと言われるとは。イリスは少なからず動揺し、失恋の痛みは一瞬どこかへ飛んでいった。
「お前の安全を確保するためだ」
言葉が強く、間髪入れずに続く。
その口調に圧されて、イリスは一歩後ずさった。
「私の、安全?そんなの必要ないでしょ、自分の身は自分で守れるし」
「違う」
クライスの声が低く、重く響いた。
イリスの反論を遮るように立ち上がり、一歩距離を詰める。
「そうじゃない。お前は──アルディハイトの……」
一瞬、言葉が喉で止まった。記憶がないイリスにお前は“皇女”だとは言えない。万が一、尋問を受けた際に心当たりがない方がいい。知っているほうが、悪い方向にいく可能性がある。知らないなら、知らないままのほうがいいだろう。代わりに、静かに言葉を選ぶ。
「アルディハイトの出身だ。それがミーナに…いや、母上に嗅ぎつけられれば……最悪の場合死刑、良くて投獄の可能性もある」
「……え?」
あまりに非現実的な言葉にイリスは息を呑む。もちろんアルディハイトとイルーナが長年戦争を繰り返してきたのは授業で習って知っている。だが、ただ出身というだけでそこまでの極刑が与えられるというのだろうか。困惑を隠せず瞳を揺らすイリスに、クライスはそっと目を閉じた。その横顔が月光に照らされて鋭く光る。
「母上が、お前の存在を認識したのは……俺のせいだ」
静かに告げる声。けれど、その声には確かに申し訳なさが滲んでいた。
「クライスの、せい…」
「お前を遠ざけなかった」
「!それはっ」
イリスが反論しかけるのを制すように、クライスは首を小さく横に振った。
「学院での生活はこの部屋の中以外、全て母上に筒抜けと言ってもいい」
「…それって、監視されてるってこと?」
「ああ、違いない。だから、お前の存在が母上の耳に入るのも必然だった。それを分かっていて、俺は…お前を利用したんだ」
そう告げたクライスに、イリスは一瞬息を呑んだ。けれどすぐに顎を引き、曇りのない瞳でクライスを真っ直ぐに見据えた。
「利用って?」
恐ろしい程冷静な返しに、今度はクライスが息を呑む番だった。
「前に、話しただろう。俺は…母上にとってただの駒だ。国の為、民の為にもそれを受け入れるしかないと、諦めていた。だが…心のどこかでずっと、違う、そうじゃないと抗いたかった。だから、小さな反抗だった」
「…反抗?」
「これまで、母上が用意した人間以外と関わることさえなかった」
「!」
そこまで徹底されていたのか、と流石に驚きを隠せないイリスは僅かに眉間に皺を寄せた。
「アルバートも最初は母上が連れてきた。剣の指南役としてジェフが当てがわれたのも、母上の意向だ。エドガーはジェフが連れてきたが、もちろん母上の許可を得ている」
「ジェフおじさんも…」
「全て、監視させるためだ」
「そんな…」
「アルバートは昔から聡明だった。母上の思惑にすぐ気付いて、子供ながら味方になると言って母上への報告をよく誤魔化してくれた。それは今も変わらない」
クライスの置かれている状況が思っていたよりも良くないことに驚愕しつつ、アルバートの存在が彼にとってわずかばかりの救いとなっていたことに安堵した。
「だから、だ。母上の知らない人間が近くにいることは、母上のシナリオにはないことだ。自分の計画に存在しないものが混入することに、あの人はいい気をしないだろう……そう思った」
「それが、小さな反抗?」
「そうだ。そしてそれが……結果的にお前を危険に晒すことになった。ただの孤児であれば、不敬罪として孤児院に戻されるくらいで済んだかもしれない。だが、お前は…」
「私が…──アルディハイト出身だった」
そうだ、と静かに頷いたクライスは唇を噛みしめ、グッと拳を握りしめたあと、真っ直ぐイリスを見つめ口を開いた。
「巻き込んで、すまない」
言葉に込められた深い謝罪の意。イリスはしばらく何も言わず、そのアメジストの瞳をじっと見つめ続けた。そして、ようやく頭の中で整理ができたのか小さく息を吐いた。
「クライスに何度も声をかけたのは私だし、後悔もしてない。クライスを責めるつもりはないよ。ただ…」
イリスはそこで一度言葉を切ると、困惑した表情を浮かべ拳をぎゅっと握った。
「…ごめん、納得が、うまくできなくて」
「………納得、か」
「気付いたらイルーナにいて、記憶もなく孤児院で暮らした。だけど本当はアルディハイト出身なのかもしれないって知って、そうしたら今度は、あなたは重罪人ですって言われてる。理屈は分かっても、どうしてもそんなの理不尽だって思っちゃって……ごめん、うまく、納得できない」
イリスの感じる理不尽は最もだろう。意図して国境を超えたのなら理不尽を感じるはずもない。しかし彼女は戦争の最中姿を消し、祖国では亡くなったとされてしまった。実際はかろうじて生き延び、奇跡的にイルーナで保護された。記憶を失い本人さえアルディハイト皇女だと知らずそのまま10年もイルーナで生きてきたのだ。
ここ半年で目まぐるしく変わった自身を取り巻く環境や境遇をすんなり受け入れられるわけがなかった。
「…分かってる。ただ、母上が動き出した」
「そう、それがどうして急に護衛って話になるの?」
「ミーナが学院に編入するらしい」
そう告げたクライスは忌々しそうに大きくため息を吐いた。
「母上の意向だろうな。そしてそれは恐らく…お前を探るためだろう」
「それも、そうなの?」
「ミーナは…あれは母上の忠実な駒の一つだ。思い通りになる王妃を作るために幼い頃に婚約を決め教育を施していた。俺よりも、よほど手をかけてな」
母親の愛情が向けられなくなり、切なさに苛まれる中で見かけた母上のミーナへの洗脳とも呼べる教育。幼い頃、それを知った時は恐ろしさに身が竦んだ。それからこの婚約に拒否感を抱き始めたのだったな、と昔の記憶が思い浮かぶ。
「じゃあ、あの人は……クライスに会いに来たんじゃないってこと?」
「あれが俺に会いに来るのは、母上の意向がある時だけだ。あれにとって重要なのは俺じゃなく第二王子であり、王妃の座だからな」
数回とはいえ会うたびに彼女の表情が母上に近づいていくのがたまらなく恐ろしく、嫌悪感が募っていった。
「そして今回は、俺の監視とお前の調査だろう」
「クライスの監視も、目的なの?」
「ああ、間違いない。鬱陶しいが、婚約を解消するまでは仕方ない」
まさか婚約者にまで監視されるなんて、あまりにも窮屈すぎる。流石に同情心が芽生えてしまう。と、そこで最後の言葉が引っかかりイリスは思わず聞き返した。
「え、婚約解消するの?」
その言葉にクライスは当たり前のように返した。
「ああ」
あまりにも簡潔に頷くので、イリスは目をぱちぱちと瞬かせた。婚約解消ってそんな簡単にできるものなんだろうか。いや、今していないということはそう簡単ではないのかもしれないが、でもクライスは即答した。どういう事だろう、と首を傾げると、そんなイリスを見たクライスは先程までより少し雰囲気を和らげさらに答えた。
「婚約解消の為に随分前から裏で動いている。簡単じゃないからな、材料が必要なんだ」
「なるほど…?」
未だよく分かっていない様子のイリスにクライスは微笑むと、そっと彼女の頬に手を添えた。
「だから、気にしなくていい」
「………!」
そう言って親指で頬を撫でるクライスに、イリスは目を見開いた。
「…気にしていただろう」
「そ、れは…その」
やはりあの去り方は不自然だったのだろう。観察眼の鋭いクライスが気付かないはずもないか、とイリスは戸惑いながらも納得せざるを得なかった。
「…うん、まあ…ちょっとだけ」
「…ちょっと?」
彼の手のぬくもりのせいで頬が熱くなっていく。決して、クライスが揶揄うように「ちょっと?」と普段よりも砕けて聞き返してきたからではない、と自分に強く言い聞かせる。
「やっぱ全然気にしてない!」
「そうか、残念だな」
「ざっ…!?ざ、残念でした〜!!」
気恥ずかしさを隠すように前言撤回すれば、まるで心の中など見透かしているかのように彼は面白そうに頬を緩め、さらりと小さな爆弾を投下した。残念とは。どうやら最近あたふたする様子を揶揄うのがお気に召したらしい。イリスはぐぬぬ…と何故か悔しさを抱きクライスを睨むと、彼はまた愉快そうに目元を緩めたのだった。
ふわりと離れたはずの手のぬくもりがまだ頬に暖かさを残している。
(なんていうか…完敗だ……)
イリスは心の中でため息を吐いた。気付けば、婚約者の存在で広がった胸の痛みはすっと消えて、陽だまりのような暖かさが広がっている。彼が婚約を解消しようと画策していると知れただけで安堵するなんて単純すぎるだろうか、と思いつつ恋なんてきっと単純なものなんだろうと開き直ることにした。
そう、開き直るのは得意だ。
だから。
「護衛のこと、詳しく聞かせてくれる?」
笑ってそう尋ねれば、クライスは安堵の表情を浮かべイリスの手をすくい、指先に静かな口付けを落とした。まるで神聖な儀式のように、誓いを立てるように。
「巻き込んでしまった責任は取る。必ず、母上からお前を守ると誓う」
「巻き込ませちゃった責任は取るよ。だから、どうすればいいのか、教えて」
イリスの返事に一瞬ぽかんとしたクライスは、その意味が分かると小さく笑いを吹き出し、緩やかに目を細め頷いたのだった。
ランプの灯が揺れる。
それはまるで、ふたりの心の距離を照らすように、
静かに──あたたかく、夜を包み込んでいた。




