揺れる想い
夜の風が寮のカーテンを静かに揺らしていた。
薄手の布が微かに膨らんでは戻り、月明かりを含んだ空気を部屋の中へ送り込む。学院祭の喧騒は遠い。窓の外には雲の隙間から下弦の月が少しだけ顔を出していた。
その光は弱く、儚く、今にも消えてしまいそうだった。
イリスは制服のまま一人、ベッドの端に腰を下ろしていた。背筋を伸ばすことも、横になることもできず、ただそこに座っている。時計の針の音が静かに通り過ぎていく。
胸の奥にどうしようもない痛みが居座って離れない。鋭い痛みではなく、鈍く、重く、息をするたびに存在を主張してくるような、そんな不安定な痛みだった。
「……婚約者、か」
ぽつりと零れた声はあまりにも小さく、部屋の静寂に吸い込まれていった。
誰からも返事はない。
部屋に一人なのだから当然だ。
それでも、口に出さずにはいられなかった。
頭の中であの一言が繰り返される。
──“クライス様の婚約者、ミーナ様だよ。”
軽い調子で、悪気もなく笑うように言ったエドガーの声が胸の奥で反響する。
「分かってた……はずなのに」
王族である彼に、相応しい相手がいることなんて簡単に想像できる。物語やおとぎ話の王子様には必ず美しいお姫様がいるものだ。そうでなくても、政略や立場の上で婚約者が決められていることなんて当たり前のことで、当たり前すぎて、抜け落ちていた。
頭では分かっている。
それでも、胸のどこかでほんの少し──ほんの少しだけ、夢を見てしまっていたのかもしれない。
並んで歩いた並木道の静けさ。光るキャンディを渡してくれた手のぬくもり。夜の光に照らされて、ほんの一瞬だけ柔らかくなった横顔。頬に触れ、熱を灯し揺れた瞳。
全て、夢だったのかもしれない。
「……期待しちゃって、ばかみたい」
自分に言い聞かせるように呟きながら、膝の上で拳を握る。強く握りしめたはずなのに、指先に力が入らない。視界がじわりと滲んだ。床の木目も、影も、輪郭を失っていく。気づけば、手の甲に雫が落ちていた。
「泣いちゃ、だめなのに」
小さい頃、誰かにそう言われた記憶がまた蘇る。優しかったのか厳しかったのか、今では思い出せない声。
『人前で泣いてはならぬ。──のために笑顔でいなさい』
その言葉だけが、なぜか鮮明に残っている。
遠く、遠く、耳の奥で響く。
「……なんで、泣いちゃいけないの」
一人呟いたところで答えはわからない。わからないのに泣いちゃいけないなんて、そんなの理不尽だ。朧げな記憶の中の男性の声にそう思った途端、堰を切ったように涙が零れた。頬を伝い、顎から落ちシーツに染み込んでいく。止めようとしても止まらない。
声を出すことすらできず、ただ静かに泣いた。
肩が小さく震え、呼吸が浅くなる。
クライスのアメジストの瞳が脳裏に焼きついて離れない。柔らかな月明かりの下で、一瞬だけ優しくなったあの瞳。あのとき、彼は確かに何かを言いかけた。
“イリス、俺は──”
続きは、聞けなかった。
「……あのあと、何を言おうとしたんだろう」
思うたびに、胸がきゅっと締めつけられる。
もし、あのまま言葉が続いていたら。
もし、ミーナが現れなかったら。
そんな“もしも”を思い浮かべた瞬間、胸の奥にまた新しい痛みが生まれた。
涙を拭って、イリスは小さく息を吸う。冷たい夜気が、熱を持った頬を静かに冷やしていく。
「うん、泣いたらちょっと軽くなった気がする」
誰に言うでもなくそう呟いた。胸の痛みはモヤがかかったようになかなか消えてはくれない。それでもほんの少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
窓の外を見上げて、小さく名前を呼ぶ。
「クライス」
その名前を口にした瞬間、胸の奥がほんのわずかにあたたかくなった。
大丈夫、笑え。
笑って、気付かなかったことにすればいい。
(私も、彼も…何も気付かなかった。それでいい)
「帰ってくるリチェルに心配、かけないようにしないと」
そう言って目を閉じたとき、遠くの空に黎明の星が一つ淡く瞬いていた。
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朝の透き通る光が学院の塔の影を長く伸ばしていた。
中庭では2日目の学院祭の準備がいそいそと行われ、花の香りと焼き菓子の甘い匂いが混ざり合っている。
雲ひとつない青空。
視線の先に、銀の髪を揺らしながら歩くクライスの姿がある。背筋は美しく伸び、人の視線を自然と集める。
そして、その隣。ミルクティーのような髪を靡かせる少女。薄桃色のドレスの裾が陽の光を受けてきらめき、笑った時の仕草は指先まで上品に、どこまでも洗練されていた。
「……あの子」
思わず漏れた言葉に、隣にいたリチェルが顔を上げる。クライスの隣を歩く少女を見て、彼女は眉をひそめた。相変わらずリチェルの貴族嫌いが存分に表情に現れている。
「あれは……たしか、ミーナ様だったかな」
「クライス様の婚約者さん、ですよね」
リチェルと反対の隣にいたエイミーの悪気のない、ただの説明。けれどその言葉はあっという間に昨日の夜を呼び戻し、胸の奥が冷えていく。
昨日の花火。クライスの瞳。
触れた手のぬくもり。
思い出したすべてが再び遠い夢のように霞んでいく。
知らなかったふりをして、笑って誤魔化そうとしたけれど頬がうまく動かない。私いま、どんな顔をしてるんだろう。そう思った瞬間、イリスはそっと背を向けた。きっと、優しい友人達に心配をかけてしまう。
「ごめん、ちょっと……風にあたってくる」
「イリスさん!?」
エイミーの驚く声を背中に小走りでその場から逃げ出した。
人気の少ない裏庭へ続く小道で足音が重なる。
振り向く前にリチェルの気配だと分かりそっと足を止めた。結局、心配をかけてしまった。追いかけてきてくれたリチェルを無視するわけにもいかず振り返れば、彼女は困惑したような表情に心配の色を乗せて覗き込んできた。
「イリス、どうしたの?さっきから顔が変だよ」
「……変、かな」
「エイミーも心配してた」
「そっか、悪い事しちゃった」
無理に笑おうとした声は、ひどく震えていた。リチェルはその様子を見逃さずイリスの腕を掴む。
そして、真っ直ぐに見つめた。
「イリス。もしかして──クライス様のこと、好きなの?」
一瞬、呼吸が止まった。
否定しようとした。
笑って誤魔化そうとした。
けれど、唇は動かなかった。胸の奥にあった痛みがその言葉によって一気に形を持つ。
“好き”
それは、今まで心の奥に閉じ込めていた光が無理矢理外に引きずり出されたような感覚だった。
イリスは唇を震わせながらゆっくりと笑った。
「……気付かなかったふり、しようと思ったんだけど」
その瞬間、涙が溢れた。
堪えようとしなくても、自然に零れ落ちる。
「難しいや」
きっと、すごく不細工な顔だ。無理矢理笑った顔を見てリチェルは大きくため息を吐くと、そっとハンカチを差し出した。
「イリス、嘘が下手なんだから仕方ないよ」
イリスはなにそれ、と小さく笑って差し出されたそれを受け取った。けれど、リチェルの優しさに触れたせいか涙は余計に止まらなくなってしまう。
「リチェル、どうしよう。好きになっちゃいけない人、好きになっちゃった」
「だから言ったのに。王族と関わると碌な事ないよって」
「だって〜…」
「うん、わかってる。生まれなんて関係ない、それがイリスだもんね。でも……」
リチェルは幼い子に言い聞かせるように、優しくイリスの頭を撫でた。
「……悲しいけど、現実は変わらないから。忘れよう、イリス。今は辛くても、乗り越えられるよ。乗り越えて……もっともっと素敵な恋、しようね」
その声はどこまでも優しくて、どこまでも切なかった。
朝の冷たい風に溶けていく。
イリスは涙を拭い、空を見上げた。夜の名残を残した空に、まだ青い月がうっすらと浮かんでいる。その光が滲んで見えたのは、きっとまだ心が追いついていないからだった。




