煌めきの影
学院祭の夜空を花火がゆっくりと照らした。
闇を押し広げるように空に開いた光の花が、紅と金の粒となって降り注ぐ。大きく、静かな花火は夜の天蓋いっぱいに広がり、ゆっくりと溶けていった。
人々の歓声も、遠くで鳴る笛の音も、いつの間にか輪郭を失っていた。今、イリスとクライスの世界には、夜空と光の余韻だけが残っている。
イリスは空を見上げながら静かに微笑んだ。頬を照らす月明かりが柔らかく揺れ、赤いリボンが夜風に踊る。その姿は、花火の残光よりも鮮やかで儚くも見えた。
「…今日、あっという間だったな」
小さな声。問いかけではなく、独り言。イリスらしくない、夜に溶けてしまいそうなほど柔らかくどこか切ない響き。その横顔を見た瞬間、クライスの胸の奥が微かに疼いた。遠くを見つめるように少しだけ細められたペリドットの瞳。涼やかで凛とした、けれど暖かさを纏うその瞳から目が離せなくなる。
──ああ、まただ。
時折のぞかせる彼女の本当の面影が、本来の距離を突きつけてくる。イルーナ王国とアルディハイト帝国。長年争い続け、今もなお国境が固く閉ざされた敵国の王族と皇族。
けれど、今夜の彼女はいつもよりずっと近くに感じる。肩が触れそうな距離。手を伸ばせば、迷うことなく届いてしまう距離。
──気づけば、身体が勝手に動いていた。
理性が追いつくよりも早く、クライスはそっと手を伸ばしイリスの頬に触れた。
温かい。
夜気の中で際立つその体温が掌を通して心臓にまで伝わってくる。鼓動が速くなるのをどうしても止められなかった。
「……クライス?」
イリスの瞳が揺れる。
驚きと戸惑い。
そして、ほんのわずかに──何かを待つような光。
その視線を受け止めた瞬間、クライスの喉がひくりと鳴った。
言葉が喉からこぼれ落ちそうになる。
けれど、その先は言ってはいけない。
(わかっている。俺の立場も、責任も、未来も)
それでも。
胸の奥から込み上げる衝動は、理屈など簡単に置き去りにしてしまう。
「イリス、俺は──」
そこまで言って、クライスの声が止まった。
ヒールの音が、コツコツと冷たく夜の石畳に響く。
「クライス様、こちらにいらしたのですね」
静かで、整えられたソプラノ声。穏やかでありながら感情を乗せない、確実に人の意識を引き寄せる声。
クライスの瞳が一瞬で温度を失くした。
反射的にイリスの頬から手を離し、一歩距離を取る。触れていた温もりが断ち切られ、二人の間に夜の冷たさが流れ込んだ。
ミルクティーの髪が揺れ、上等なドレスの裾が月明かりを反射する。その姿を視界に捉えた瞬間、クライスの胸に冷気が流れた。
(……母上が動いたか)
内心を一切表に出さず、表情を整え声だけを落とす。
「ミーナ」
その名を呼ぶ声音には、どこか鉄のような硬さが混じっていた。イリスは初めて見るクライスの表情に息を呑んだ。さっきまで確かにそこにあった温度が、嘘のように消えている。
感情を削ぎ落としたような無。
ただ、ただ、遠い。
行き場のなさに心地悪さを感じ、一歩後ろへ引いた時だった。そこへ場違いなほど軽い声が響く。
「おっ、ミーナ様!クライス様いました!?」
エドガーがいつもの調子で手を振りながら近づいてくる。その明るさが、今の空気にはあまりにも無邪気で異質で、イリスには救いに思えた。そっとクライスから離れ、エドガーの方へ歩み寄る。声を落とし、聞こえないように小さく尋ねた。
「エドガー、あの子は…?」
「ん?ああ、クライス様の婚約者、ミーナ様だよ。生徒じゃねぇけど、こういう行事にはよく顔出すんだよな」
胸の奥に、氷が落ちる音がした。
【婚約者】
たった一言。
それだけで、世界が裏返る。
(そっか……そう、だよね)
クライスはイルーナ王国の第二王子。
生まれも、立場も、背負っているものも違う。
(私とは、最初から違う世界の人……そんなこと、分かってた。それこそ、最初から)
それでも、それだけじゃないと思ってしまった。今の彼があまりにも自然に、向き合ってくれていたから。
さっきまで確かにあった温もりが、指先からすり抜けていく。胸が痛い。息をするたびに、鈍い痛みが広がる。
「……わ、私リチェルたち探してくるね!」
無理に明るい声を作り、笑う。
クライスの目を見ないまま、イリスは踵を返した。赤いリボンが夜風に揺れ、月が雲に隠れるようにその背を宵闇に溶かした。
「イリ──」
呼びかけかけたクライスの声は届かず、彼女の姿はあっという間に見えなくなる。
ミーナは不自然なほど何事もなかったかのようにクライスの隣に立つと、ただふわりと微笑んだ。完璧に計算された微笑。舞台の上の女優のような佇まいに、エドガーはよくわからない寒気を感じ腕をさすり、冬が近いな…と先ほどより暗さを増した空を見上げた。
クライスは一度だけ目を閉じ、低く息を吐いた。
拳を握る。
その中に残るのは、さきほどイリスの頬に触れたときの確かなぬくもり。
華やかな学院祭の音は、もう遠い。
夜の静寂だけが、彼の胸に重く、深く残っていた。




