イリスとクライス
声の主を見上げると、アメジストの瞳が冷たく輝いていた。何故ここに、と返事をするのも忘れて目の前の彼を凝視していると、エドガーが慌てたように姿勢を正した。
「負けてしまいすみません、護衛として更に精進します」
「ああ」
そのやりとりに、エドガーはこの第二王子の関係者だったのかと納得した。通りで強いわけだ。なるほどなるほど、と感心していると、相変わらず威圧感を放つ彼がエドガーから視線をこちらに戻した。彼の名前はなんだっただろうか。この前リチェルに教えてもらったばかりだというのに記憶の片隅に追いやられてしまった。これではリチェルに申し訳ない。うーん、と頭を捻る。
「えっと名前…えーっと…あ、思い出した!クライス=ヴァリシエ!」
「ちょおおお、イリス!?」
慌てたようにエドガーに肩を掴まれる。
「流石にそれは不敬!やばいから!」
「ふけい?」
ふけい、とは。父兄ではないだろうな、この場合。じゃあ一体なんのことだろうと首を傾げていると、第二王子の登場に帰る足を止めていた観客席の生徒たちがどよめいた。
「ちょっとあの子!」
「不敬だ…」
「非常識だわ…」
ちらほらと聞こえる声の中に非常識という言葉がありようやくふけいの意味を理解した。不敬、失礼にあたるということか。
生徒たちのざわつきに対してか私に対してかはわからないが、彼は目を伏せるとため息を溢し、吐き捨てるように言った。
「もういい」
「え、なんで?」
わざわざ闘技場の中央まできて話しかけてきたのに、もういいとは一体なんだ。呼び捨ては失礼だったかもしれないが、一度くらい許す広い心を持って欲しい。こちらの問いかけに答えることなく背を向ける彼に声をかける。
「ちょ、無視?ねえ何?なんだったの?」
「………」
「ねえってば、ちょっと!」
彼の足が長いせいか、自然と小走りになって靡く青いマントについていく。後ろでエドガーと、第二王子といつも一緒にいる水色髪の男子がこちらを興味深そうに眺めている。
「…………すげーな、あの子」
「無知とは時に最大の武器なのかもしれませんね」
「いやそう言ってる場合か?」
スタスタ行ってしまうクライスを追いかけていると、はあ…と大きなため息を吐いて彼は振り向いた。つられてぴたりと止まる。
「……お前」
「イリス。あ、名前ね」
一応自己紹介をすると、眉間に小さく皺が寄った。名前を教えるのも失礼だったのだろうか。帰ったらリチェルに偉い人に対するマナーを一通り教えてもらおうかなと考えていると、彼が何か考えるように口を開いた。
「………イリス、剣の基礎は誰に教わった」
「わかんない」
「は?」
「昔からなんとなく体が覚えてて、教会にいた時はたまに来るジェフおじさんに稽古つけてもらってたよ」
彼の眉間の皺が深くなってしまった。一体なんだというのだろう。
「タメ口かよ…」
「ある意味素晴らしいですね」
「だから感心してる場合じゃねーだろ!」
エドガーと水色髪の彼の小話からタメ口も不敬にあたるらしいと理解するが、もう時既に遅しすぎる。散々タメ口で話してしまった。クライス、様。様ね。そう心の中で反芻していると、ふと記憶の片隅に思いあたることがあった。
「そういえばクライスってどっかで聞いたことあるような……あ、ジェフおじさんだ」
「ジェフが?」
ジェフおじさんの名前を出すと、彼の表情が少し動いた。ジェフおじさんは王国騎士団の団長だ。第二王子と知り合いでもおかしくない。
「イリスはクライス様といい勝負ができるかもしれないなって言ってた!そうそう、それだ!」
独り言のようにそう口に出してスッキリすると、彼の綺麗な顔が歪んだ。まるで侮辱するなとでも言いたげだ。
「………………お前が、俺と?」
「あー、その顔。疑ってる?」
「あり得ないな」
「やってみなきゃわかんないよ」
「………」
「………」
無言で睨み合うこと数秒。彼が腰に据えていた切れ味の良さそうな剣を抜いた。
「来い」
「そうこなくっちゃ!」
同じように剣を抜くと、後ろの二人がぎょっとして間に入った。
「待った待った!ストップだイリス!」
「クライス様、お待ちください」
「退け。ジェフの目に狂いがあったと証明する」
クライスの有無を言わせぬ声に二人は顔を見合わせ、おずおずと下がった。闘技場に残った生徒たちもさっきまでのざわめきが嘘かのように静まり返っている。成り行きを見ていた騎士科の教師の一人がこほん、と空咳をこぼした。
「本来なら生徒同士の私闘は校則違反ですが、クライス様の意思でしたら特別に許可させていただきます」
それでは、始め!その合図と共にクライスが一瞬で間合いを詰めてくる。反応が一瞬遅れてしまったが、なんとか攻撃を避け後ろに下がった。感情が読めない瞳だ。
一進一退の攻防が続き、少し息が上がってきた。彼の呼吸も少し乱れている。ここまでは五分五分といったところだろう。
「お前の剣捌き、確かにジェフの鍛錬で身についたものだろうが…構えや呼吸が違う」
「こ、呼吸…?」
そんなこと気にした事なかったな、と思いながら彼の重い一振りをなんとか去なす。やはりというか、護衛のエドガーよりも強いんじゃないだろうかこの人。けれど、ジェフおじさんと比べれば。
「はあっ!」
「っ…」
まだ隙はある。彼が剣を振り上げた瞬間、一気に間合いを詰めると彼は一瞬目を見開きガードの構えをとった。守りに入った今こそがチャンス、と攻撃すると見せかけ彼の目の前で飛び上がる。
「なっ…」
クライスの後ろに着地しすぐさま背中に剣を突きつける。驚愕の表情を浮かべていたエドガーや教師たちがハッとしたように動き出そうとした瞬間だった。クライスが厳しい声でそれを諌めた。
「下がれ」
「しかしクライス様…」
「下がれ、と言っている」
「…はっ」
教師、エドガー、クライスの側近のような男子生徒達がおずおずと下がる。それを一瞥して彼は片手をすっと挙げた。
「……リザイン」
その一言に剣を下ろすと、周りの人たちが一斉に肩を下ろしふぅ、と大きく息を吐いた。すると、いつから見ていたのか久しぶりに見る屈強な男性が拍手をしながら闘技場の中へと歩いてきた。
「以前より腕に磨きがかかっているな、イリス嬢」
「ジェフおじさん!」
「ご無沙汰しております、クライス様」
クライスに敬礼したジェフおじさんに軽く会釈をするクライス。彼もジェフおじさんに稽古をつけてもらっていたのは先程の闘いの中で感じていた。
「だがイリス嬢」
ギロ、と鬼のような顔でこちらを向いたジェフおじさんに反射的にビクッと身体が跳ねる。ダラダラと冷や汗が流れてきた。もしかしなくても、あの事を聞いているのかもしれない。
「筆記試験がブランクとは、どういうことだ?」
「あー…あははは」
やはりバレていた。乾いた笑いで誤魔化そうとすると更なる形相で睨まれて大人しく縮こまる他なかった。
「全く、せめて何かは書けと言っただろう」
「試験用紙見た瞬間に睡魔が…」
「言い訳無用!」
「ひぃっ!ごめんなさい!!」
そんなジェフおじさんとのやり取りを聞いていたクライスが呆れたようにため息を吐いた。呆れるのはわかるけれども。そんなクライスに向き直ったジェフが片膝をついてクライスを見上げた。
「クライス様、このジェフより一つ頼みを申し上げたい」
「何だ」
「このイリス嬢を、クライス様の護衛の任に就かせたいのですが、いかがかな?」
その言葉に驚いたのはそこにいる全員だった。もちろん私も含めてだ。しかし彼だけは違い、冷静に言葉を返していた。
「護衛だと?」
「ええ。イリスの実力は申し分ないと身を以て実感なされたのでは?」
そう口に出したジェフおじさんの表情は自信あり気だった。自分が育てましたとも、と言わんばかりである。否定はしないが。そもそも私の意思はどこに?と少し不満に思いながら彼を伺うと、氷のような冷たい視線を向けられた。
「必要ない。邪魔だ」
肌を刺すような冷たさだ。
嫌われているのだろうかと勘違いしそうな程の拒絶。不敬極まりない女として実際に嫌われてしまったのかもしれないが。
「そ、そうですよジェフ団長!クライス様には俺がいますから!」
クライスの絶対零度をおまけで浴びて固まっていたエドガーが意識を取り戻したのか慌てたように反発した。しかし、それをジェフおじさんが一蹴する。
「エドガーでは敵わない刺客が現れたら?」
「そ、それは…」
グッと歯を食いしばりエドガーは下がった。事実、決闘の優勝者は私だ。今この時点では私はエドガーよりも強いということになる。ただし決闘なんてスポーツの試合と一緒だ。今日は私が勝ったが明日はエドガーが勝つかもしれない。そう思い詰める事もないのにな、と複雑な気持ちでエドガーを見つめていた。
「クライス様のお察しの通り、この娘は魔法が不得意です。しかし魔法ならクライス様ご自身で身を守る事はできる。だが武力においてはどうか」
まだ話を終わらせる気がないのか、ジェフおじさんは尚もクライスにそう進言した。魔法が苦手な事を彼は察していたのか。思わずクライスに問いかける。
「もしかして、だから魔法使わなかったの!?」
「剣術の話をしていた筈だが」
「そう、だけど…手加減されて勝っても…」
彼に勝てたのは、彼が魔法を使わなかったから。もし彼が魔法を使っていたら私は負けていたのだ。そう考えると悔しくなってくる。誰が見ても分かるほど渋い顔になっている自覚はあるが、負けず嫌いな性格はまだしばらく直りそうにない。そんな私を見たジェフおじさんが呆れたように言った。
「イリス嬢、クライス様はイルーナ王国の第二王子であらせられる。魔力の量、質、威力、どれをとっても一般人とは比べものにならん。魔法で敵う者など、同じ王族の方か…同等の血族を待つ方々だけだ」
「クライス様と魔法で争うなど、猛獣に生まれたばかりの赤ん坊を差し出すようなものですよ」
ジェフおじさんに続いて水色髪の男子生徒がそう付け加えた。わかりやすいが、とんでもない例え話で補足され背筋が震えた。
「その生まれ持った圧倒的な魔力で災害や戦争から国を守るのが王族の務めであり、我々王国騎士団はそんな王族の皆様、そしてこの国の民を守るための組織だ」
ジェフおじさんが胸を張りそう言い切る。その言葉には自信と誇りがみなぎっていた。
「…王族ってすごいんだぁ」
「お前、王族のことなんだと思ってたの?」
「偉そうにしてる偉い人」
「ごめん聞いた俺が悪かった。一回黙ってような」
エドガーに口を塞がれもごもごと攻防していると、ジェフおじさんは改めてクライスに向き直った。
「イリス嬢を置いておくメリットはあれど、デメリットはないのでは?」
エドガーの手を口から引き剥がし、ぷはっと息継ぎをしてジェフおじさんに問いかける。
「私いなくて大丈夫なんじゃないの?その人強いんだし」
「イリス嬢、お前もいずれ王国騎士団に入れば護衛の任務を受ける。クライス様と関わることもあるだろう。学院生活の中で慣れておくに越したことはない」
「えーー…」
「お前ほんと失礼だな!すげー光栄なこと今言われてんだぞ!?」
エドガーに両肩を掴まれ前後にガクガクと揺さぶられる。酔いそうだ。そもそも本人が要らないと言っているのだから必要ないんじゃないだろうか。
「クライス様、どうされますか」
水色髪の男子生徒がそう尋ねるも、彼は変わらず首を横に振った。意思は変わらないらしい。というか、私が失礼ばかりするから相当嫌われたということかもしれない。それはなんというか、推してくれているジェフおじさんには素直にごめんなさいなのだけれど。私的には護衛しなくて良いならそれはそれで、という気持ちだ。自分の自由時間の方が正直今は大事である。
「……そうですか」
わかりました、とジェフおじさんが頭を下げると、クライスは行くぞ、と水色髪の男子生徒とエドガーを引き連れて闘技場を出て行った。三人を見送り姿勢を正したジェフおじさんの前に仁王立ちで立ちはだかる。久しぶりに会ったのだから、相手してもらわなければ。
「ジェフおじさん!稽古つけてよ!」
「まったく元気なお嬢さんだ」
はっはっはっ!と軽快に笑いながら、彼はイルーナ王国の紋章が入った剣を抜いた。