学院祭準備Ⅴ
沈みゆく夕陽の名残が雲の端を照らす。もう少しで消えてしまいそうな柔らかな橙色が涼しげなアメジスト瞳を彩り、暖かさを纏わせた。
その光景にふと思い出したのは、天文学の授業で教師が言っていたことだった。
月は太陽に照らされ光を放つ。
イルーナ王国には太陽と月の信仰がある。まるで月のようなクライスと、会ったことはないがイルーナの太陽と称されている兄フェリス。クライスはフェリスのことを良く思っていないのか、その名が出ると顔を強張らせる。けれど、太陽を見るその涼やかな紫の瞳はどこか焦がれているようで、切なそうで、そしてほんの少し、寂しそうにも見えて、どうしようもなく聞きたくなってしまった。
クライスのことが、もっと知りたい。
素直にそう思った。
「………太陽、好き?」
返事が返ってきたのは、温かな陽の光が姿を消し、青暗い空をぼんやりと月が照らし始めた時だった。
暫しの沈黙の後、クライスは空から視線を逸らさずぽつりとこぼした。
「……俺は」
その声はいつもより少しだけ低く、細い。
イリスは水筒を抱えたままそっと顔を上げ、クライスの横顔を見つめた。
「幼い頃は、フェリスが……兄上が、王位を継ぐと思っていた」
兄上と言い直したクライスの声は、僅かに柔らかくなった。
「圧倒的な魔力量。誰にも教わることなく全属性を使いこなす。持って生まれた才能があり、努力も惜しまない……そんな兄上を尊敬しない筈がなかった。誰もが、兄上がいずれ王になるのだと信じて疑わなかった」
「フェリスって、もしかして…凄いを通り越してめちゃくちゃ凄い…って感じ?」
「…そうだな。凄い、なんてものじゃない」
偉大なる魔法使いの生まれ変わりだ、身に精霊が宿っているのだ、そう噂になったこともあるとクライスは小さく笑った。それほど、フェリスの持つ魔力量は凄まじく、魔法使いとしての実力が高いということだろう。一般人からすればもの凄いクライスが言うのだから、その凄さは計り知れない。
「兄上が10歳、俺が9歳の頃に、光と闇、それぞれの精霊から力を授与される儀式が行われた」
クライスの声色が硬くなり、その視線が空から地面に向けられた。
「闇の精霊が兄上を選び、光の精霊が俺を選んだ。ここから………全てが変わった」
"イルーナ王国は、歴代の王が光魔法を操る者である。"
前回のテストで出てきた文章を思い出し、クライスの言葉の意味をなんとなく察してイリスも同じように目を伏せた。
王位継承権一位の兄が、誰もが彼が次期国王だと信じて疑わなかったフェリスが闇魔法を授けられ、弟が光魔法を授けられた。
「光魔法を持つ俺を、『あの人』──母上が次第に“王位継承者”として本気で押し上げようとし始めた」
光魔法を授けられたクライスが王になるべきだと声をあげる者が出て来てもおかしくない。それが、彼の母親だった。第二王妃であるクライスの母親の影響力は大きいに違いない。
歴代の王が光の魔法を持つのが当たり前とされてきた王国で、第一王子である兄が闇魔法。その事実がどれほど政治を分断し、彼自身を引き裂いたか。
「兄上は、フェリスは対立を望まなかった。……いつしか第一王子としての責務から逃げるようになった」
絞り出すような声。イリスにはその裏に、どれほどの失望や寂しさ、怒りがあったのか痛いほど伝わった。
「母上が望むのは、俺を王位に就かせ裏で権力を握ることだ。そして、アルディハイトとの戦争を再開させたがっている」
「そんな……」
戦争を望むなんて、と驚いて顔を上げれば、痛ましい表情のクライスもこちらを向いていた。クライスのそんな顔は初めてで、言葉に詰まる。
「子供の頃、戦場や戦火に塗れた街をこの目で実際に見た。あの惨劇を繰り返そうなど………正気の沙汰じゃない」
クライスは切なくも力強く言い切った。
「アルディハイトを手に入れても、イルーナが焼け野原じゃ意味がない筈だ。だが、あの人にとってはそんなことはどうでもいいんだろう。アルディハイトを滅ぼし、より広大な土地を手に入れ、圧倒的な権力を手に入れる。それだけが望みだからな」
「……クライス」
クライスは、自分もあの人の駒なのだと、そう吐き捨てるように言った。
尊敬していた兄が問題から目を背けた。母親の行き過ぎた私欲、駒として動かされる自分。それを正しいとは思えないのに、兄が政治から離れた今、国の為に自分がやるしかない現実。このままではいけないと分かっていて、母親の望み通りの道を進むしかない現状。息苦しさと、自分に押し付けられた運命への諦め。それでもどこかで、諦めきれずに抗おうとしてしまう自分への苛立ち。
それらを、クライスは長く短く、ところどころ言葉を選びながら話していった。イリスは口を挟まず、彼の抱える葛藤に、ただ静かに耳を傾けていた。
やっぱり、と思う。
彼は──クライスは優しい人だ。氷のように透き通るくらい心が綺麗で……けれどたくさん傷ついて、悩んで、その綺麗な心にヒビが入ってしまったのかもしれない。彼が持つ冷たさは、そんな自分の心を守るための防御なのかもしれない。そんな風に感じた。
沈黙が落ちた後、イリスは小さく笑った。
「クライスらしいね」
クライスが、わずかに眉を動かす。
「…らしい?」
「私もさ、最初はクライスのこと、この人冷たいな〜って思ったし、なんか怖い印象もあったけど…知れば知るほど分かった。優しいんだよね、クライスって。自覚ないでしょ?」
きっぱりと言い切るその口調に、クライスは一瞬だけ目を丸くし──やがて、諦めたように目を細めた。
「……俺を優しいと言うのは、お前だけだからな」
その声色は、驚くほど柔らかかった。
イリスは腕を膝の上で組みながら、ふん、と鼻を鳴らす。
「みんながクライスのこと知らなさすぎるだけじゃない?いや、もちろん存在は知ってると思うけど!中身の話!」
「中身、か…………だが、知って欲しいと思うことさえ…俺には許されない」
クライスがその言葉を胸の中で転がした瞬間──
イリスの頭の奥に、ふいに別の声が響いた。
『イリス、お前は────の”象徴”なのだ。
──の前では笑顔でいなさい』
「っ…」
ズキ、と頭の奥が痛み、イリスは思わずこめかみに手を当てた。
「…イリス?」
クライスの問いかけが遠く聞こえるのと同時に、別の声が重なっていく。
『泣き止みなさい、イリス』
『でも…お母様が……っ…』
『それでも、お前が悲しい顔をしていると──も悲しむのだ』
『私が──だから、泣いちゃいけないの!?』
『そうだ。人前で泣いてはならぬ。──のために生きるのが、アルディスに選ばれし───であるお前の使命なのだ』
意味を掴みきれない断片的な記憶。
なのに、胸の奥だけが妙に苦しくなる。
やがて不自然なほどに痛みがすっと引き、イリスは遠くを見るような目で無意識に呟いた。
「……“象徴”」
「!?」
クライスの肩がわずかに震えた。イリスは自分の口から溢れたそれが何を指すのか分からなかった。けれど何故か、その言葉だけが胸の奥にひっかかる。
そして目の前のクライスを見た瞬間──
その言葉が彼にも当てはまる気がして、息が詰まった。
王国の“象徴”。
光の魔法を持つ第二王子。
笑顔も、振る舞いも、政治の行動も──全て「象徴」として見られる存在。
(悲しいことも、苦しいことも、表に出してはいけない。子供の頃からずっと。象徴であり続ける限り)
ふと思い出した幼い自分の感情と、クライスの苦しさが重なって、イリスはきゅっと口を結んだ。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……私、今から変なこと言う」
クライスが片眉を上げる。
「変な、こと?」
「どうしてかはわからない。けど…何故か、クライスの気持ち、わかる気がする」
「!」
イリスの言葉に、クライスの瞳が大きく揺れた。
「…ごめん、こういうの一番腹立つよね。私も自分で何言ってるんだって思うし」
イリスは自嘲気味に笑ってうつむいた。だけど、と小さく息を吸って、膝を抱え込むようにして地面を見つめたまま続ける。
「“象徴”であることが嫌なんじゃない。でも、“自分”を受け入れて欲しい…って気持ち、なんでかな………すごく、"分かる"気がして……変だよね」
自分でも理由は分からない。
でも、胸の奥で疼く何かが、そう告げていた。
クライスは確信があった。イリスがアルディハイトの皇女であると。断片的に、少しずつ記憶が戻りつつあるのかもしれない。幼い頃に彼女も似たような言葉を何度も掛けられていたのだろうと想像はついた。
だからこそクライスは、お前に何がわかる、とは思わなかった。むしろ、ようやく心の底から共感してくれる存在に出会えたことに安堵を感じる程だった。
目を伏せて気まずそうにしているイリスの頭へ、クライスはそっと手を伸ばした。
指先で優しく髪を撫で、静かに呟く。
「…ありがとう」
その一言に込められた温かさを感じて、イリスははっと顔を上げる。
「!………うん」
重なり合った視線の柔らかさに安心して小さく頷くと、じわりと胸に灯った温もりが頬を染めた。




