束の間の休息
昼下がり、穏やかな学院の中庭。
噴水の音が静かに響き、木陰の下のベンチでクライスが分厚い本を開いていた。風に揺れる銀髪、横顔は絵になるほど端正で、ページをめくる指先まで無駄がない。見惚れる女子生徒達や尊敬の眼差しを送る男子生徒達の視線など露知らず、まるでそこだけ空間が切り取られたかのように優雅な時が流れていた。
「あっ、クライス!」
明るい声と共に、その優雅な時間は終わりを告げた。小さなブーツの音が芝を踏むたびに弾む。軽快な足音が近づき、彼の前に影を落とした。
「また勉強?真面目だねぇ」
両手を腰に当てて呆れ顔のイリスに、クライスは顔を上げずページをめくったまま静かに答える。
「試験前に詰め込みたくはないからな」
「正論パンチ……」
耳が痛い…と両手で耳を押さえ苦い顔をする彼女をちらりと横目で見て、彼は呆れたように続けた。
「お前は勉強より先に、落ち着いて歩く練習をした方がいい」
「えぇ!?なんで!?」
「今も駆け寄ってくる途中、転びそうだった」
「み、見てたの!?」
顔を真っ赤にして抗議するイリスのスカートの裾についた芝の葉を指で摘み取ると、クライスはわずかに口元を和らげた。
「お前らしくて、悪くはないが」
「…………」
間近で交わされる声色はどこか特別で、イリスの胸が僅かに跳ね思わず視線を逸らした。
「ら、らしいって……」
「そのままの意味だ」
ページを閉じ、本を膝に置く。まっすぐに向けられるアメジストの瞳に射抜かれ、イリスは思わず言葉を失った。
木漏れ日の中、噴水の音が穏やかに時を流れる。
周囲の生徒たちも遠巻きに二人の様子をちらちら見ては、ただざわめきを呑み込んでいた。
「そのままの意味って…絶対ばかにしてるでしょ」
「していない。…こともないか」
「ちょっと!」
ふ、と息を吐くように軽やかに笑みをこぼしたクライスに様子を伺っていた生徒達にざわめきが起こった。しかしながら周囲の喧騒など慣れたものである2人はさして気にすることもなく会話が続く。
「いつまで立って話すつもりだ。座れ」
「え、いいの?」
「今さらだろう。…おいで」
「っ……」
さらりと誘うように柔らかく手を差し出され、心臓がどくりと脈を打つ。
(なにそれ……ずるい……!)
頬をほんのり赤く染めながらも、おずおずと差し出された手を取り、流れるように彼の隣に腰を下ろした。ベンチに座った瞬間、ほんの少し肩が触れる。
「もう少しそっち寄れない?」
「狭いから仕方ない」
「……それ、わざとでしょ?」
「……どうだろうな」
横目でちらりと向けられた微笑みに、イリスは視線を泳がせる。拒否もせず誘われるがまま隣に座ったくせに、高鳴る胸が落ち着かず妙に緊張する。それもこれも全て、出会った頃とはまるで別人のように柔らかな視線を向けてくる彼のせいだと人のせいにして、イリスはそわそわと視線を巡らせた。
「な、なんか……静かだね。ここ」
「お前が来る前まではもっと静かだった」
「なっ……!?」
やっぱりクライスはクライスだ、変わってないかも!と膨れるイリスの表情に、クライスはほんの僅か唇の端を緩める。
「だが…お前がいる方が妙に落ち着くのは、何故だろうな」
小さく呟かれた言葉は、イリスだけに届くほどの低い声。彼の言葉が耳の奥で反響して、全身が一気に熱を帯びた。
「……ぁ……」
言葉が出ないイリス。そんな彼女の反応を楽しむように、クライスは彼女の頭にそっと手を伸ばし、いつの間にか髪に引っかかっていた葉をそっとその綺麗な指で摘んで取り除いた。
「どこを駆け回ったら頭に葉が乗るんだ」
「さ、さっきまで温室で薬草の授業だったの!」
「どうせ実験で失敗したんだろう」
「なんでわかるの!?」
イリスの騒がしい反応に、クライスは喉の奥でくつくつと笑うと、摘んだ葉を手のひらに乗せ静かに魔法を唱えた。
すると、筋通ったような風が一枚の葉を浮かせ、するすると葉を撫でていく。流れるように葉の周りが切り落とされ、クライスの手のひらには四つ葉の形をした綺麗な新緑が残った。
「すごい…!風魔法でそんなこともできるんだ!」
イリスは感動したように目をキラキラさせクライスの手に乗る葉を見つめていた。彼は目を細めイリスの手を取り、四つ葉の形を模した葉をそっと彼女の手のひらに乗せた。
「四つ葉を渡す意味を知っているか」
「ううん、知らない。どんな意味があるの?」
瞬きを繰り返す彼女の耳元で、内緒話をするように囁いた。耳に吹きかかる息に、彼女の身体が硬直する。
「自分で調べろ」
「………は、……ええ!?ちょっと!!」
顔を真っ赤にして怒るイリスをからかうように淡く笑うクライスの表情は今まで見たことのない年相応の男の子のようだった。
揶揄われたことへの悔しさはありつつもそれ以上怒る気になれず、楽しそうに肩を揺らす彼を見て、まあいいか、とイリスもつられて笑ってしまったのだった。
そんな穏やかな昼休みを過ごしたその日の午後、イリスは温室で三人の女子生徒に囲まれていた。彼女達の背に流れるマントの色は青色。特別科の生徒達だ。
イリスは心の中で、ついに来た…と身構えた。
「…あなた、孤児なのよね」
「またその話…?」
「何よその態度!」
「…口に出てた……!?」
はっと両手で口を押さえるが、時既に遅し。明らかに苛立ちを顔に浮かべた彼女達は、イリスを追い込むように一歩足を踏み出した。
「同情でクライス様の気を引いてさぞいい気分でしょうね」
「なんて浅ましいのかしら…!」
蔑むように吐き捨てられ、イリスは想像していた通りの展開に今度こそ口に出さないよう心の中で言い返した。
(クライスって同情するようなタイプじゃないと思うけど…あ、これ悪口じゃなくて!)
誰にも聞かれていないのに何故か心の中で言い訳を重ねる自分に訳がわからなくなり首を傾げると、中央の女子生徒が顔を思い切り顰めた。
「そうやって無垢なフリをして近づいて…いやらしいわ、本当に…低俗ね」
「これだから育ちが悪いのって嫌なのよ」
「まともな教育を受けていない証拠だわ」
次々と罵倒されながら、そっと片手でお腹を押さえた。
(やばい…お腹鳴りそう…)
空腹が限界を来ている。この空気の中、お腹の音が鳴り響くことが相応しく無いことは流石に分かる。イリスはぐっと奥歯を噛み締め、どうにかこの場を早く切り抜ける方法はないだろうかと考え始めてすぐに一つの答えに辿り着いた。
後ろには大きな木がある。見上げて枝の場所を確認し、木の幹に触れ感触を確かめた。そして引き続き心無い言葉を投げつける女子生徒達を無視して、思い切り飛び上がり1番近い枝を掴み幹に足をかけよじ登った。
「な………にしてるのよあなた!」
驚愕したように上を見上げる女子生徒三人を見下ろし、もう一つ上のしっかりした枝によじ登り腰を下ろした。その瞬間、ぐう…とお腹から確かな音が響いた。しかしながら彼女達には聞こえなかったらしい。それについての反応はなく、イリスは一先ず助かったと胸を撫で下ろした。
そしてお腹の音という問題を乗り越えてすぐ、実は何も助かってはいない状況だということに気付いた。
(もしかして私って…馬鹿?)
もし心の声がクライスに聞こえていたら「もしかしなくても馬鹿だろう」と冷静に言われたに違いない。
「孤児のくせに、わたくし達貴族を見下ろすなんて…」
「無礼にも程があるわ…!」
「信じられない…最低ね…!」
心底軽蔑したように見上げる女子生徒達に、どうしたものかと肩を落とす。出来ればあまり騒ぎになりたくない。パーティーで選ばれた女子生徒が退学したことを自分のせいだと認識しているクライスには特に知られたくないのだ。
また自分のせいで、なんて思わせたくはない。
「私のことが気に入らないのは分かったけど、じゃあどうしたらいいの?」
この類の特別科の生徒に真正面から立ち向かっても無駄だということはこれまでの経験上で分かっているが、それ以外どうしたらいいか手立てもなく一旦ストレートに尋ねてみた。すると、中央の女子生徒が手を広げ声を張り上げた。
「今後一切、クライス様に近づかず身分相応の生活をしなさい!さもなくば、今後無事に学院生活が送れるだなんて思わないことね!」
そうだそうだ、と言わんばかりに両隣の生徒が大きく頷いた。
「じゃあ、クライスから近づいてきた時は?無視して逃げたらいいの?それこそ不敬なんじゃない?」
「そ、それは…クライス様があなたに自ら近付くなんてありえないわ!」
「あるから言ってるんだけど…」
「うるさい!!」
「えええ…」
顔を赤く染め憤慨する女子生徒達を見下ろしながら、どうしたものかと途方に暮れる。何を言っても恐らく気に入らないのだろう。だとしたらまともに会話が出来る気がしない。早々に諦めたくなってしまった。
「さっきも、クライス様の隣に座るなんて……ありえないわ!!非常識よ!」
「あれはクライスが」
「お黙り!!」
「えええええ…」
理不尽すぎる。呆れから思わず天を見上げ、透明な屋根を見てここが温室であることを思い出したイリスは一か八か、賭けに出ることにした。
まだ体の奥に残る淡い光の流れをイメージしながらそっと魔法の杖を取り出し、天井に向かって叫んだ。
「風よ、切りさけ!」
「なっ…!!」
その瞬間、緑の魔法石が反応し光を放ち温室内で吹くはずのない突風が巻き起こった。その風は鋭く、天井に繋がれた太いパイプを1箇所、切った。
「きゃああああああっ!!」
「い、息できなっ…」
「うっ!やめ、ちょっと…!」
パイプの切り口から滝の如く強い水流が真上から襲いかかる。彼女達はその水の量と勢いに呑まれ必死に息を吸おうと顔周りを手で押さえていた。そしてなんとかその水流から逃れると、彼女達は声を揃え、覚えてなさい!──そんな捨て台詞を吐きながら温室から駆け出して行ったのだった。
特別科の生徒達がいなくなった温室で、同じく木の上で水飛沫を浴び、びしょびしょになりながら目の前で流れ続ける滝を茫然と見つめるイリス。
「………やばい、かも」
これ、相当怒られるのでは。呼び出しを受けた瞬間の数百倍の危機感を覚え、イリスは途方に暮れた。
そして案の定、騒ぎを聞きつけた教員によりしこたま怒られることになったイリスは半泣きになりながら最終奥義『クライスを召喚』を使用し、約1時間に及んだ教員の叱咤からようやく解放されたのだった。
職員室からの帰り道で、クライスがびしょ濡れの私を風魔法と火魔法を掛け合わせ一気に乾かしながらため息を吐いた。
「何故大人しくついていったんだお前は…」
「ついに来たか〜!って…今思うと何にも考えてなかった気がする」
「……馬鹿すぎる」
完全に乾いた制服をぱんぱん、と叩きクライスにお礼を言うと、そうだ!と先程の一幕を思い出しイリスは興奮気味に語り出した。
「でもパイプ切る時ね、今日クライスがやったみたいに風魔法でザクっと出来たんだよ!?出来るかどうかは賭けだったけど、上手くいったの!」
「!」
「クライスがお昼にあの魔法見せてくれたから、そうだ!って思いついて!」
おかげであの子達追い返せたんだよ〜!と嬉しそうに報告するイリスに、呼び出された原因を聞いてから少なからず抱いていた負い目がふわりと消えていき、クライスは目を細めた。
気を抜けば以前のように深く沈んでいこうとする己の心をいとも簡単に救い上げる目の前の少女が眩しくてたまらない。
「…イリス」
「ん?」
何事もなかったかのように首を傾げるイリスの少し乱れた横髪をそっと指で整え、クライスは慈しむように指の背で頬を撫で木に登った時に出来たであろう小さな擦り傷を光魔法でそっと癒した。
「後で知る方が、気にかかる」
「!」
恐らく彼女は、あえて何も言わず、何も伝えず、知らないうちにいざこざを済ませ何事もなかったようにしたかったのだろうことにクライスは気付いていた。それは全て『王族のせい』にしないための彼女なりの気遣いなのだと。
だからこそ、彼も伝えなければならなかった。
「これからは、先に言ってくれ。いいな?」
「…ん、わかった」
不安定な立場であるイリスを守ること。
それが今、クライスの中で優先事項の一つだということは紛れもない事実だった。