困難を乗り越えて
朝靄の残る学院の木々。談話室には試験を控えた生徒たちの緊張が漂っていた。ざわめきと羽根ペンの音、紙をめくる音がそこかしこに広がっている。
「うっ……なんかもう緊張で吐きそう……」
イリスは机に突っ伏しながら呻く。
「しっかりしてねイリス。今日を乗り切らないと補習地獄だよ」
リチェルはいつも通り冷静にノートを確認する。
「イリスさん、これ……」
エイミーが頬を赤く染めながら、おずおずと手作りの模擬問題集を差し出した。紙の端には丁寧な書き込みや図解がびっしり。
「エイミー!天才!!」
イリスが勢いよく抱きつき、エイミーは「ひゃっ……!」と小さく悲鳴を上げた。そんな様子を見てクライスは静かに目を伏せ、カイルは呑気に笑う。
イリスの目が覚めたのはまだ夜が明ける前。いつもと違うふかふかすぎるベッドで目を覚ましたイリスは状況を把握するや否や勢いよく上体を起こした。ソファに横になるクライスに気付き顔が青くなる。部屋の主を差し置いてベッドで寝ていたとは。しかも試験まであと数刻。
焦ったイリスは慌ててベッドから飛び降り、その結果無様にも床に転がった。その衝撃と音に気付いたクライスが目を覚まし、呆れながら振り返ったのだった。
こっそりとステラ寮からルーナ寮に戻ったイリスは誰にも気づかれなかったことに胸を撫でおろし、あたかもずっとルーナ寮で寝ていましたといわんばかりに自分のベッドで二度寝しリチェルにたたき起こされたのがついさっきのこと。
テスト前に最後の追い込みを、と騎士科の談話室でおなじみとなったメンバーで最終確認をしていたが、ついに鐘が鳴りそれぞれの学科へと健闘を祈り別れたのだった。
騎士科の最初の試験は剣技の実技だ。
訓練場に集められた生徒達は、剣を握り締め綺麗に隊列を組み今か今かと自分の番を待っていた。
「受験番号114番、イリス──」
試験官の声が響くと同時に、イリスは木剣を握り砂地へと進み出た。
会場を取り巻く視線。緊張が一気に高まる。
「……はぁっ!」
一歩踏み込み、剣を振るった瞬間。
空気を裂く音が轟き、模擬敵の木人形が綺麗に斬り倒された。
「す、すごい……」
その無駄のない型と身体の使い方に同じクラスの騎士科の男子生徒が思わず声を漏らす。
「やっぱイリスだな!」
エドガーが興奮で拳を振り上げ、隊列からもどよめきが広がった。イリスは満足そうに頷き、教員も誇らしげに笑みを浮かべた。
そして次に、騎士科は教室へと移動し筆記試験が始まった。
長机の上に広げられた問題用紙を見て、イリスは固まる。文字が塊に見えて思い切り頭を横に振った。改めて気を取り直し問題文に視線を落とすと、あることに気付く。
(……あれ?これ、見たことある……)
次の問題をめくる。
(え、これも……!)
さらに次も。
(やったー!これエイミーのまとめにのってたやつー!)
羽根ペンがすらすらと走る。イリスは奇跡のように答えを書き進めていった。
試験終了の合図と共にイリスは机に突っ伏し、燃え尽きた表情で呟いた。
「……ほ、ほとんど知ってる問題だった……」
心の中でエイミーに頭を下げ感謝を述べながら初めてと言っても過言ではないくらい埋まった答案を胸を張って提出したのだった。
学科ごとの実技、筆記試験を終え全校生徒が訓練場へと移動するなか、イリスを心配していたエイミーとリチェルが駆け寄り筆記試験の結果を尋ねると、イリスは得意げに笑みを浮かべグーサインを出した。
「なんと…ほとんど分かったの!エイミーの模擬問題集、ほぼ当たってたんだよ!」
「え、えぇぇぇ!?う、嘘でしょ……」
リチェルが愕然とし、エイミーは真っ赤になりながら俯く。
「すごいすごい!エイミーほんと大天才!!」
イリスに抱きつかれ、エイミーは「ひゃあああ!」と再び小さな悲鳴をあげるのだった。
「なんやかんや乗り越えるあたり、イリスらしいけどね。このまま魔法実技も頑張って!」
笑いながらイリスの肩をぽん、と優しく叩いたリチェルに、イリスは笑って頷いてみせた。
「お手洗い行ってくるから二人は先に行ってて!」
「うん、またあとでね」
二人にそう声をかけ、イリスは人の流れから外れた。
既に生徒達が移動し、静まり返った中庭の片隅で、杖を抱いたままイリスはそっと壁に背を預ける。
弾む心臓。乾く喉。
小さな声で、誰にともなくこぼれてしまった。
「……やっぱり、無理かも」
その瞬間。
「イリス」
低い声に顔を上げると、クライスが静かに立っていた。
他の生徒達のざわめきは遠く、二人の間だけが切り取られたように静まり返る。
「昨日やっただろう。お前はできる」
「でも、結局昨日も最後は寝ちゃったし……せっかくクライスが魔力、分けてくれたのに…」
言い知れない不安から無意識にクライスの袖を掴んでしまう。魔力を受け渡した後、彼は明らかに疲労の色を顔に浮かべていた。きっと渡す方にも何かしらの負荷がかかるのだろうと簡単に想像できる。もし失敗してしまったら彼に申し訳が立たない。絶対にうまくやらなくては、そんな思いが募るほど、比例して不安も大きくなる。きゅっと口を引き結んだ。
その仕草に、クライスの瞳が僅かに揺れた。普段冷徹さすら漂うアメジストの瞳に、今ははっきりとした庇護の色が灯る。
「大丈夫だ。……俺がいる」
短い言葉。
けれどその声音は誰よりも優しく、確かだった。
「……クライス」
胸が熱くなる。不安と緊張で揺れていた心がすっと落ち着いていく。イリスがぎゅっと杖を抱きしめ直すと、クライスは僅かに口元を緩めた。
「お前一人で挑むわけじゃない。俺の魔力を信じろ」
クライスの手のひらがそっとイリスの頬に添えられ、暖かな温もりが流れ込んでくる。修練で減った分の魔力を補うように柔らかな波動が身体を満たしていく。昨日よりも不思議と馴染むその魔力を感じながら目を閉じ、自然と頬を預ける。
光の温もりがそっと収まり静かに目を開けると、クライスは親指でそっと頬を撫で柔らかく微笑んだ。新入生歓迎パーティーの夜から僅かに感じていた彼の柔らかな視線は、もしかしたら勘違いではないのかもしれないと胸が高鳴る。
「ありがとう、クライス」
イリスの安心したような表情に、クライスは満足気に頷き二人は訓練場へと足を進めた。
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訓練場では学科ごとに属性に分かれ列を成し、試験官となる教員の前で魔法実技を披露する形式でのテストだった。
「次、イリス!」
試験官の声が響くと、ざわつく列の四方八方からざっと視線が集まった。騎士科の問題児と揶揄される彼女に、魔法ではどこまでやれるのかと期待と好奇心が入り混じる。
杖を握りしめて前に出るとき、イリスはちらりと特別科の列を振り返った。
――そこには、無言で頷くクライスの姿。
その視線はまるで「大丈夫だ」と告げるようで、イリスは小さく息を吸い込んだ。
(……大丈夫。クライスの魔力、無駄にはしない!)
白線の中央に立ち、標的の木人形を見据える。手のひらに魔力を流し込むイメージを繰り返す。昨日の夜、クライスと共に何度も練習した感覚を必死に呼び起こし、その彼から譲り受けた杖を空高く掲げた。
「……行くよ!」
杖の先端が赤く光を帯び、炎の魔法石が呼応する。ドッカーンと暴発したあの時の轟音はなく、今度は拳大の火球がふわりと生まれ、一直線に木人形の胴を射抜いた。
「…………っ!」
観客席が一瞬静まり返る。次いで大きなどよめきが広がった。
「おお、ちゃんと的に当たったぞ!?」
「イリスって剣だけじゃなかったのか!」
興奮交じりの声を浴びながらも、イリスは思わず振り返る。視線の先でクライスがわずかに口元を緩め、誰にも聞こえないよう低く囁いた。
「……よくやった」
声は届いていないはずなのに、その表情から伝わる彼の労わりにイリスの胸は熱くなり、自然と笑みがこぼれたのだった。
テストの結果。
剣技は文句なしのトップ成績を収め、筆記もエイミーのおかげで奇跡の健闘を見せた。
そして何よりの難関だった魔法実技も無事に終えることができた。
イリスは友人達の力を借り、全てを乗り越え試験を突破したのだった。