番外編 公爵閣下はキスがしたい
『ぼくは愛する人との初めてのキスを、みんなの前でするのなんて嫌だけどな』
昨晩叔父上が苦笑しながら口にした言葉が、頭から離れない。
私がいまだ、彼女の手にしかキスをしたことがないと話したときの発言だ。
ヴィオレッタはまだ若く恋愛ごとにも鈍く、だから十も年上の私は紳士的に振る舞わねばならない。
そう考えてキスは結婚までしないと固く決意をした。
幾度となく欲望に負けそうになったが、耐えに耐えた。
だけれど。叔父上の発言で、私は初めて気づいたのだ。
結婚式でのキスは周りに多くの人間がいるのだということを。
つまりそれは、私と初めてキスをした可愛いヴィオレッタを、私以外の多くの人間が見るということだ。
そんなのは到底我慢がならない。
私と初めてキスをするヴィオレッタの表情は、私だけのものであるはずだ。
他人と分かち合うなんて絶対にありえない。
そう考えたら一睡もできないまま、朝を迎えてしまった。
我ながら、情けない。
結婚式をこんなに乱れた気持ちで迎えるのは初めてだ。
ヴィオレッタがまるで青少年のように余裕のない私の姿を知ったら、幻滅するのではないだろうか。
だがいったいどうすればいいんだ――
そんなことを考えながら食堂へ向かっていたが、足を止めると頭を軽く横に振った。
今日はヴィオレッタと私の結婚式。彼女を誰よりも幸せにすると神に誓う日だ。
ヴィオレッタのために落ち着いて式に臨みたい。
——少し頭を冷やしてから朝食へ向かおう。
自室に戻るよりも、図書室のほうが近い。
彼女との思い出がたくさんあるそこへ、足を進める。
初めてきちんとした会話をしたのもここだった。
彼女が図書室にいるのに気づいて中を覗いたら、本棚の前をうろうろとしながら蔵書のタイトルを興奮した声で読み上げていたのだ。
意外な姿に興味を引かれ、気づいたら私は彼女に声をかけていた。
懐かしい思いがこみ上げるのを感じながら、中へ入る。
と、
「おはようございます、リシャール様」
軽やかで愛らしい声が背後でした。
顔を見なくてもわかる。ヴィオレッタだ。
内心の悩みが出ないよう苦心しながら、笑顔を浮かべて「おはよう」と振り返る。
けれどヴィオレッタは怪訝そうな表情でそばによった。
「リシャール様。お加減がよろしくないのでしょうか。顔色がすぐれないようですが」
とたんの鼓動が跳ね上がる。
私のあさましい心に気づかれてしまったような気分だ。
けれどヴィオレッタは心配げに眉を寄せて、首をかしげている。彼女は優しく綺麗な心の持ち主で、まるで天使のようだ。
なのに私は。
彼女に恋をして、自分が男であることを初めて自覚した。
清らかなヴィオレッタに対して、私は欲望だらけだ。
――ああ、そうか。
私はそんな自分を曝け出して彼女に引かれてしまうのが怖くて、紳士たらんとしていたのだ。
彼女を思ってのことではない。ただ、臆病だっただけだ。
「ヴィオレッタ」
彼女の手を取り、唇を押し当てる。強く、長く。
けれどこんなのでは全然ヴィオレッタが足りない。
手は離さずに、目だけを彼女に向ける。
「愛しているよ。今日の日が待ち遠しくてしかたなかった」
「はい。私もです」
ヴィオレッタが頬をバラ色に染めながら、微笑む。
「けれど思うことが多すぎて、昨晩は眠れなかったんだ。心配をかけるような顔色になってしまい、すまないね」
彼女に安心してほしくて微笑むと、ヴィオレッタは「まあ」と目をみはった。
「そんなに楽しみにしていただけて、嬉しいです。でも寝ていらっしゃらないのなら、少しお休みになったほうが……」
「大丈夫だ」
そう、大丈夫。私はいい大人だ。何事もなかったように、感情を隠して振る舞うことぐらい造作もない。
ないけれど。
ヴィオレッタは、まだ心配そうな顔で私を見ている。
知り合ってから今までの出来事が、いや彼女が私に見せてくれたいろいろな表情が脳裏に浮かぶ。
たまらなくヴィオレッタが愛しい。
「ヴィオレッタ」
理性で押しとどめたいのに、言葉が口からこぼれ落ちていく。
「君にキスがしたい」
彼女はまた目を見開いた。頬がほんのりと染まっている。
「『挙式までは』と思っていたのだが。あとたったの数時間も我慢できそうにない。ダメ、だろうか」
心臓が激しく脈打っている。
ヴィオレッタに嫌がられたら、呆れられたら、軽蔑されたらという不安が湧き上がる。
けれども、これが私だ。
どれほど余裕のある大人のふりをしても、彼女をかき抱きキスをして、私だけの宝物にしてしまいたいと望むただの男だ。
一秒が永遠にも感じられるほどの間のあとに。
ヴィオレッタは頬をバラ色に染めてはにかんだ笑顔を見せた。
「私も、したいです」
耳に届いたのは、小さいけれど嬉しさを滲ませた声だった。
嬉しさのあまり、脳天がくらくらとする。
いい大人が聞いてあきれる。
でも今は、そんなことはどうだっていい。
そっと彼女の身体に手を添えて抱き寄せる。
ヴィオレッタは胸の前で手を祈るように握りしめ、私の目を見ながら何度か瞬きをした。それからゆっくりと目を閉じる。
あまりの可愛さに、意識が遠のきそうになる。
だが! 意識を飛ばしている場合じゃない。
ゆっくりと、唇を重ねる。
手の甲とは違う、柔らかな感触。
すぐに離れてヴィオレッタを見ると、彼女もゆっくりと目を開き微笑んだ。
嬉しそうな笑顔に、愛おしさがさらに募る。
まだまだ全然、ヴィオレッタが足りない。
彼女をさらに抱き寄せる。
そして二度目のキスを――
神よ、フライングを赦してほしい。
私は今、このキスに誓う。
愛しいヴィオレッタを私は生涯愛し、ともに幸せになる、と。
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詳しくは本日(3/29)の活動報告をご覧ください。




