10・4 リシャールの傷
王宮の庭園に初めて散策に出た。
ジスモンド様が、『素敵だから、帰る前に一度くらい見なさい』と勧めてきたのだ。私もリシャールも他人に会いたくなくて、必要なとき以外は部屋から出ていない。勧められても、あまり気乗りはしなかったのだけれど、そう伝えるとジスモンド様は『人除けをしよう』とにっこりしたのだった。
「これが、『人除け』か」と、リシャール様が呆れ声を出す。
彼の視線の先にはジスモンド様。そしてキャロライン殿下。ふたり並んで楽しそうにしている。その周りにはたくさんの侍女やら近衛やら。確かに誰も近寄れない。けど。
「自分が殿下と散策したかっただけではないかな」
「私もそう思います」
「私も」
日傘持ちのイレーネも小声で賛同する。
「でもおかげで、私なんかまで素晴らしい庭園を散歩できてラッキーです。いい土産話になります」
「そう? ならよかったわ」
「叔父上からは少し離れておこう。邪魔をしたくない」とリシャール様。
人除けの意味がまったくないわね。でもあちらが注目されるぶん、誰も私たちには気を留めない。すれ違ったときに『おや』と言われるくらい。
それに庭園はジスモンド様の言ったとおりで、散策し甲斐がありそうだ。
「確かにクラルティ邸とはまた違った趣のある庭ね。どちらも素敵だわ」
「ですです」とイレーネ。
だけど彼女は急にハッとしたような顔になって、
「すみません。あとは空気になっています。私の存在は忘れてください」なんて言い出した。
「どうして?」
「いえ、その」なぜかオロオロするイレーネ。「ええと、あ。普通はメイドがお嬢様と楽しく散策なんてしないんです。静かにしていないと」
「別に構わないわ。私はお嬢様ではないし」
「いえ、旦那様の評判を下げてしまいますから」
イレーネが心持ち離れる。
それなら仕方ないわね。
ジスモンド様たちのあとをついていくように、のんびりと庭園をそぞろ歩く。
話題は他愛もないことばかり。
ジスモンド様に『リシャール本人に言って』と言われたことが気になるのだけど、どのタイミングでそんな話をしていいのかわからない。そもそも、伝える必要なんてない気もするし。
私が勝手に思っていることだものね。
「あら、すわってしまいました」
ジスモンド様とキャロライン殿下が噴水の縁に腰かけている。足を止めてリシャールを見る。
「どうしますか。追いついてしまいます」
「わ、大変!」突然イレーネが叫んで、日傘を私に押し付けた。「落としものをしちゃいました。探してきます!」
「それなら一緒に――」
「いいんです! 来ちゃダメです!」
早足で逃げるように去って行くイレーネ。
「どうしたのかしら」
「腹具合でもよくないのかもしれないな」とリシャール様。
「それなら、気づかないふりをしていたほうがいいですね」噴水を見る。あちらは長くすわっていそうな気配だ。「私たちも、ここでお話をしていましょうか」
「ああ。ちょうどよくはある。ヴィオレッタに話しておかなければならないことがあるのだ」
「なんでしょう」
リシャール様が杖を握りなおすのが、視界の端に入った。
言いづらいことなのかもしれない。どことなく緊張しているように感じる。
よくない話かもしれない。
もし後見人になれないなんてことだったら、どうしよう。そばにいて守りたいと思ったばかりなのに。
「ヴィオレッタ」とリシャール様。辛そうな顔。「私は呪われている。妻たちが死んだのはそのせいだ。君は妻でないとはいえ、本当に安全なのかはわからない。呪ったひとがなにを考えていたかわからないからだ」
彼がごくりと唾を呑み込む音が聞こえた。
「それでも私は君を連れて帰りたい。キャロライン殿下のそばだろうが、王宮に仕えさせるのは不安だからだ。だが、決めるのは君だ」
リシャール様の美しい紫色の瞳が、不安そうに揺れている。
想定していたお話ではなかったことはよかったけれど、胸が痛い。
どうして彼が、こんなに苦しまなければならいのだ。
「呪いのことは、陛下から伺いました。お母様が亡くなるときに、だそうですね。クラルティ邸へは戻らぬほうがいいとも忠告されました」意識して笑みを浮かべる。「陛下は卑怯な方ですね。私が自分の意思でリシャール様から離れて、あなたを傷つけるようにしたかったのだと思います」
「ヴィオレッタ」
「もちろん私は四人目になりたくないし、死にたくもありません。でも呪いなんてないのですから、そこは心配しておりません」
「だが母は確かに言ったんだ」前のめりになるリシャール様。
「『呪う』とですか」
「いや」彼の瞳がまた揺れた。「『クラルティ家の正妻は私だけ』と。私も聞いていた」
「それのどこが呪いなのですか」
「だから私の妻はみな死ぬ」
「違います。呪いだなんて言い出したのはどなたですか。悪意ある侮言に過ぎません」
またも、怒りが湧いてくる。
「お母様をも侮辱しているのですよ」
そのセリフはきっと、彼女の精神的支えだったものか、悪く考えても先代クラルティ公爵に向けた恨み事だと思う。
「もしお母様が本当にリシャール様を呪いたいほど憎んでいたのなら。そんな遠回りなことはしないで、あなたを殺したのではありませんか。だってそのときあなたはまだ十歳だったのでしょう? 簡単にできたはずです。でもそうしなかった」
先代公爵夫人が亡くなったときのことは、以前ジスモンド様に詳しく教えてもらった。セリフのことは初耳だけれど、それ以外の状況は知っている。
そのうえで夫人は、父子を憎んで死を選んだのではなく、疲れてしまっただけだったと思う。
もちろん私は伝聞でしか当時の状況を知らないから、絶対にそうだとは言いきれないけれど。
「お母様が十年もの間、リシャール様に本当の母でないことを伝えなかったのはなぜでしょう。実の母親がもういないことを気遣う気持ちが、多少なりともあったからではありませんか」
どちらも私の勝手な想像にすぎない。そうあってほしいという願望かもしれない。
だけど国王にも、同じことを伝えた。
リシャール様の目が大きく見開いている。
「……母は私に冷たく厳しかった。けれど最期のとき以外で、『お母様』と呼ぶことを拒んだことはなかった……」
「ほら! 呪いなんてないのです、リシャール様」
そうよ、あるはずがない。そんな理不尽なこと。
「事故が続いていることは慙愧に耐えません。怖くもあります。ですが私はクラルティ邸に帰ります。家族になってくださると、リシャール様はお約束をしてくださったではありませんか」
「ヴィオレッタ」
「はい」
「君はすごいな」
なにがだろう。
リシャール様は泣き出しそうな顔になっている。
「共に帰ろう。ヴィオレッタのことは私が責任をもって預かるし、守る」
「私も。微力ではありますが、リシャール様をお守りしたいです」
「……嬉しいな」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
と、
「あっ! いたいた! ヴィオレッタ、リシャール!」
という叫び声が耳に届いた。




