10・3 決意
トレーガー侯爵が去り、小部屋にはジスモンド様とふたりきりとなった。
「さて」と彼が腰を上げる。「部屋に送るよ。もうリシャールが戻っているかもしれない」
「ありがとうございます。でも、気になることがひとつあります」
ジスモンド様がすわり直してくれる。
「なにかな」
「トレーガー侯爵は良い方のように思えます。だけどわずかに違和感が。ひとさまのプライベートな領域に入りたくはありませんが、リシャール様にとって本当に良い方なのかどうか、判じきれなくて」
娘が結婚後わずか三日で亡くなっているというのに、やけにリシャール様の肩を持っているような印象がある。それに家族のお茶会に彼女だけ不参加というのも、引っかかる。
「ヴィオレッタはぽやぽやしていそうで、よく観察しているよね」
ジスモンド様はそう言って、困ったように吐息した。
「すみません」
「だがリシャールのために気にしているのならば、喜ぶべきことだ。侯爵はリシャールに対して引け目を感じているのだと思う。ハンナローラはね」またもため息。「僕を好きだったんだ」
「ジスモンド様を?」
予想外のことに、思わず聞き返した。
ハンナローナ様はリシャールの婚約者なのに、ジスモンド様を好きだったというの?
胸の内にもやもやが広がる。
「ふたりが婚約したのは幼いころでね。リシャールが十歳、彼女が六歳のときだった。そのころ僕はもう屋敷を出ていたから、ハンナローラに初めて会ったのは父の葬儀のときで、彼女は十三歳。僕は二十四。僕は若くて美貌も最高潮」と彼は少しおどけて言った。「おかげで一目ぼれされてしまったんだよ」
ハンナローナ様は甘やかされて育ったそうで、けっこうなワガママだったらしい。ジスモンド様に一目ぼれすると、リシャール様ではなく彼と結婚したいと言い出したという。
「とはいえ誰だって、子供の戯言だと思うだろう? 僕も惚れられるのはいつものことだから、たいして気にしていなかった」
「リシャール様は傷ついたのではありませんか」
「いや。もともと性格が合わなくてね。嫌いということもないけど、特別好きでもないというところだった。婚約を代わってもいいなんて言って、周囲を困らせたくらいだ」
そうなのかしら。今までのお話で、リシャール様は最初の奥様をお好きだったと思っていたのだけど。なんでそう思ったのかは、思い出せない。
「だけどハンナローナは結構本気だったようでね」とジスモンド様。「マティアス兄――リシャールの父親の葬儀でも、まだ僕と結婚する気でいた。しかも僕をクラルティ公爵にした上でだ」
「そんなことができる可能性があったのですか?」
「……不可能ではなかったよ」
リシャール様とハンナローナ様の婚約は、リシャールの父親である先代クラルティ公の強い希望で決まったという。先代は国王にひどく憎まれていて、このままだと息子は無事に爵位を継げないかもしれないと考えていたらしい。その対策がトレーガー侯爵家と縁戚関係になることだったそうだ。
実際、リシャール様が無事に公爵になれたのは、そのおかげがあるという。
だから力関係でいえばリシャール様よりトレーガー侯爵のほうが上。婚約を解消することは簡単だった。
けれど侯爵は、そうしなかった。ひとつは友人を裏切らないため。もうひとつは醜聞を避けるため。婚約を解消してその叔父と結婚する――しかも遊び人として有名な男――だなんて、社交界で恰好のネタになってしまう。
「リシャールは賛成していたけどね」とジスモンド様がまたもため息をつく。「父親を亡くして、自身も足を怪我して、精神的に参っていたから。ハンナローナはそんなリシャールをいたわることもなく、最低なことを考えていたんだ」
ひどい。
「僕だってそんな令嬢は御免だし、そもそも生涯結婚なんてしたくないんだ。胸糞悪い話はそこで終わったはずだったんだ。だが挙式の段階になっても、彼女はまだ諦めていなかった。リシャールの足を、どうしても受け入れられなかったせいもあったようだ」
最初の奥様が、屋敷の絨毯をはがしたことを思い出した。
「彼女はいずれ離婚したいからという理由で、初夜を拒んだ。平謝りするトレーガー侯爵夫妻をリシャールがなだめてね。腹立たしい状況だったよ」
「私も胃がムカムカします。故人に対して無礼だとは思いますけど」
いったいどうしたら、あんなに優しいリシャール様を平気で傷つけられるというのだろう。
「そういう訳で、トレーガー侯爵はリシャールに対して引け目があるんだよ。結婚なんてしないほうがお互いのためだった。けれど侯爵夫妻も、ハンナローナがそこまで意固地だなんて、思わなかったみたいだ」
そのときのリシャール様は、どんな気持ちでいたのだろう。
彼のことだから、自分と結婚しなければならないハンナローラ様に同情していたのかもしれない。
「ジスモンド様」
「なんだい」
「昨日、リシャール様に助けてもらったときに、思いました。『私なんて、本当はリシャール様の友人に相応しくないのに』って」
「どうしてだい!」
「だって、父は多くの人に非常識と言われる人間だし、しがない伯爵家のつまらないほうの娘だし、いまではただの庶民です」
それに比べてリシャール様の立派なこと。
「でも先ほど陛下とお話しているときに気が付いたんです。私は彼を悪意から守りたい。そのためには、相応しくないと怯んでいる場合ではないって」
ジスモンド様がにっこりとした。
「それは是非とも本人に言ってほしい」
「はい」
「ああ、ちょうど……」
彼の視線を追って振り返る。と、開いたままの扉の向こうに、こちらに早足でやって来るリシャール様が見えた。心配そうな顔をしている。
立ち上がり、彼の元へ走って行く。
「大丈夫か、ヴィオレッタ! 陛下の元に連れて行かれたそうではないか」
「もしかしたら、陛下を怒らせてしまったかもしれません。でも今のところはお咎めなしです」
「そのあとここで、トレーガー侯爵と話していたんだよ」ジスモンドもやって来て言う。「クラルティ邸に帰るヴィオレッタを気遣って、ハンナローラは事故死で間違いないということを話して聞かせてくれていたんだ」
「そうか。よかった」
リシャール様がほっとした表情になる。
「一緒にいられなくてすまなかった」
「リシャール様は私とちがって、やらねばならないことが沢山あるのですから仕方のないことです。でも、お顔を見られて、私も安心できました」
本当に。どうしてこうも、彼を見ると心が落ち着くのだろう。
ふしぎだわ。
「手を握ってもいいかな」とリシャール様が訊く。
「お願いします」
差し出した私の左手を、彼の右手が包み込む。
じんわりとした温かさを感じて、国王から受けた悪意や、最初の奥様に抱いた苛立ちがゆっくりと消えていく。




