9・3 ジスモンドの秘密
お父様とヴィルジニーの醜態は、社交界でよい物笑いの種になっている。護送車周辺は関係者以外立ち入り禁止だったはずなのに、遠巻きに見物していたひとたちが相当数いたらしい。
ヴィルジニーの発言のせいで、私が本物のヴィルジニーなのでは、なんて噂も流れている。だけど彼女の不道徳な交友のおかげで、私は本物のヴィオレッタとの証明ができた。
ヴィルジニーには左の手のひらに目立つほくろがあったのだ。それを彼女と親しかった青年たち――セドリック殿下も含む――が覚えていた。皮肉なものだ。
◇◇
庶民に人気だというカフェにひとりで入る。以前カヴェニャック邸の親しいメイドから聞いて、一度訪れてみたいと思っていたところだ。今日はそのメイドと待ち合わせだ。
お店まではリシャール様が馬車で送ってくれたけど、彼は私の邪魔をしたくないからとほかのお店に行ってしまった。
席はほとんどうまり、にぎわっている。給仕の案内で狭い通路を進んでいると、
「こんなところで出さないでくれ。知り合いにみつかったら困るだろう」
という声が聞こえた。ジスモンド様の声にそっくりで、思わず足を止め、辺りを見渡した。
すぐに、こちらに背を向けている、金髪の青年の姿を見つけた。顔は見えないけれど、間違いなくジスモンド様だった。彼の向かいには、同じ年頃の青年がひとりすわっている。
「失礼しました」と言って彼はなにかを手元に寄せた。「でも先生、すごい売れ行きですよ。前のものを越える大ヒットになること間違いなしです」
先生ってなにかしら?
「ジスモンド様?」
近寄って声をかけると、彼が振り向く。珍しいことに、目を見張り、驚いた顔をしている。
「ヴィオレッタ! ここでなにをしているんだい?」
「待ち合わせです」
なんとはなしにテーブルに目を向ける。向かいの青年の手元に本が一冊。少し前に発売されたばかりの恋愛小説。あれは、そうだ。クラルティ邸についた日に、執事長が選んでくれた本の中の一冊だ。
「……ジスモンド様。先生ってなんですか?」
「ほら、だから考え無しに出すなと言ったのに」ジスモンド様がそう非難し、ため息をついた。
「絶対に秘密にしてくれないと困るよ、ヴィオレッタ。僕には裏の顔があるんだ」
「我が国イチのね」と青年が誇らしげな顔をする。
えええ?
どういうこと?
我が国イチ?
ちらりと本を見る。
ジスモンド様は無職で、生活費はすべてリシャールに頼っているのではなかったの?
◇◇
夕方、約束どおりにジスモンド様が私の部屋にやってきた。イレーネにはあらかじめ部屋を出ていてほしいと頼んであるから、ふたりきり。
ジスモンド様が説明はしてもいいが、他の人には絶対に聞かれたくないと譲らなかったから。彼がそんなに頑固に言い張るのは初めてだった。
「ごめんよ、ヴィオレッタ。ふたりきりだなんて無理を言って。リシャールには話していないかい?」
「もちろんです」
「ありがとう」
ほっとした顔をするジスモンド様。
円卓をはさんで向かい合わせに、すわる。
彼は椅子の背にもたれ、足を組んだ。
「さて。書物好きの君は気が付いただろうね。あのとき出ていたものに」
「はい。人気恋愛小説家の最新作でした」
「つまり、そういうことだ」
「ジスモンド様があの作家様なのですね」
彼は無言でうなずいた。
「どうしてお隠しになっているのですか」
「僕の正体を知っているのは出版社の人間ふたりと、執事長のアルフレードだけ。そこに新たに君が加わったわけだ。この重み、わかるね」
「はい」
あの作家は十年ほど前から作品を発表している。カフェから帰る前に書店に寄って確認したから間違いない。つまり、そんなにも長い期間、ジスモンド様は秘密を保っているということなのだ。
ふっと、ジスモンド様の顔から笑みが消えた。いつも優し気に微笑んでいるひとなのに。
「僕は、生活力のない遊び人だと思われていたいんだ」
「どうしてですか」
彼は遠い目をした。
「それは話したくない。でも、リシャールのマイナスになるような理由じゃないから、安心してほしい」
そう拒絶されて、気が付いた。私はリシャール様ともジスモンド様とも赤の他人なのだ、と。立ち入った話を聞くような立場ではないのだわ。
「あれの収入で、生活費を賄っている」
「クラルティ邸の財産を、湯水のように使っているのではなかったのですか」
「使っているよ」とジスモンド様。「半分はリシャールの名義で貯金し、残り半分は彼の名前で寄付をしてね」
「どうして」
「話したくないと言ったはずだが」
ジスモンド様が微笑む。でもそれは拒絶の笑みだった。
「そのあたりの工作を、アルフレードに頼んでいる。彼は僕が子供のころから、クラルティ邸の執事だからね。誰よりも信用できる人間だよ」
「そういえば屋敷の蔵書にジスモンド様の作品があったのは――」
「そうなのかい?」ジスモンド様が驚いたように目を見張る。「僕は知らないな。アルフレードが購入しているのかもしれないな」
ええと。整理をすると。
ジスモンド様は十年も活躍している人気作家で、恐らくは莫大な収入がある。
でもそれは秘密で、世間にもリシャール様にも、生活力のない遊び人だと思われていたい。
あ。
「では遊び人だとか、恋人が各地にいるというのは事実ではないのですね」
「いや、事実だよ。恋をしないで恋愛小説なんて書けるはずがないだろう?」
「そうなのですか……」
そのあたりはよくわからないわ。
「ほかに質問は?」とジスモンド様。
「ありません」
教えないと言われていること以外にはね。
彼の微笑みがいつものものに戻った。
「リシャールに隠し事はしているけれど、彼のことは大切にしている。幸せになってもらいとも願っている」
なぜかこのタイミングで、ランスを思い出した。彼はジスモンド様を疑っている。お金のためにリシャール様の三人の奥様に害をなした、と。
でもその大前提がなかったことになる。
「だから、僕のことは胸に秘めておいてほしい」
少しだけ迷った。それから、
「本当にリシャール様に悪影響がないのなら」
と答えた。
「うん、いい答えだ」とジスモンド様が満足そうに言った。「リシャールは君に出会って、いいほうに進み始めてくれた」
「そうでしょうか」
「そうだよ。君は知り合って間もないからわからないだろうが、僕は驚きの連続だよ。だからごまかさず、作家だと教えた。ヴィオレッタ。僕の気持ちを裏切らないでくれるね」
「はい」
ジスモンド様がにっこりとする。
言い方は優しい。けれど決して否とは答えられない圧を感じた。
だけど、それだから『はい』と答えたわけではない。
「君ならば、もしかしたら彼の足を治せるかもしれない」
唐突に告げられた言葉の意味がわからず、しばらく考えた。
私が足を治す……?
「リハビリとか、そういうことでしょうか」
「いいや。それは毎日やっているはずだ。ランスやアルフレードが目を光らせているからね」
それなら、どういうことだろう。リハビリのお手伝い以外で私にできることって、あるの?
「あの怪我はたいしたものではなかったんだよ。当時診察した医師も、そのほかの医師もみな、同じ診断をくだしている。リシャールの足がうまく動かないのは、精神的なものだ」
息を呑んだ。
怪我のせいではないということなの?
「聞いているだろう? あの怪我は馬車の事故でのもので、彼だけが生き残った。その罪悪感で自らを罰しているんだ」
「そんな!」
「もともと自罰思考の強い子でね。――僕のせいでもあるんだけど」
「え……?」
ジスモンド様は、またもにっこりとした。わざとらしい、空虚な表情だった。
「怪我の後遺症ではないことは、本人には話していない。知ったら、彼の性格では『こんな罰では足りない』と考えるからね。アルフレードとランスも同意見だよ」
黙ってうなずきだけを返す。
情報が多くて、気持ちも頭も整理がつかない。
「だけどリシャールは、君を助けるために走った」
「……セドリック殿下のときですか」
「そうだよ。君には『たまに走る』なんて言っていたけどね。事故以来、初めてだった。ヴィオレッタ、君はね、リシャールが僕たち以外で唯一、大切に思っている人間なんだ」
「読書友達と言っていただいてます」
唯一なんてことはないんじゃないかしら。友達はいないと言っていたけれど、奥様たちがいたわけだし。
でも私のために初めて走ってくれた。
というか、あの足の原因が精神的なものだったなんて。
あまりのことに胸が痛い。
リシャール様は、どんなに自分を責めてきたのだろう。
「そういうわけで、ヴィオレッタ」
ジスモンド様の声に我に返った。まだ話の途中だった。
「君がいてくれると、リシャールに良い影響が出る。だから遠慮なんてせずに頼ってやってほしいし、仲良くしてやってほしいし、永遠にクラルティ邸にいてほしいし。でも僕の秘密は話してはだめだよ」
ええと。ひとつおかしかったわよね。
「永遠はさすがにご迷惑でしょうけど、それ以外は私もお願いしたいです」
「ちっ」
思わずまばたく。今、舌打ちされたような。気のせいかしら。
「約束だよ」
何事もなかったように、いつもの微笑みを浮かべているジスモンド様。
やっぱり勘違いね。
「わかりました。約束します」
私がリシャール様の役に立てているかもしれないなんて。なんだか嬉しい。




