6・1 リシャールの足
ゆっくり読書ができるようにと、イレーネが気を利かせて自室にひとりにしてくれたのに、全然読むことができない。
諦めて彼女がいれてくれたお茶に手を伸ばす。
色々なことが起こりすぎているのだから、仕方ないわよね。と、自分自身に言い訳をしてみる。
クラルティ邸を発つ前に『ソフラテフ』を読み終えてしまいたいのだけど、この調子だと無理だろう。
リシャール様は私のことを話し合うために、都に行くという。ありがたいやら申し訳ないやら。
彼は今さら私を見捨てられないと感じているようだけど、多忙の身だ。領地を離れることは私が考える以上に大変なはず。
昨日も一昨日も、そして今日も昼食は仕事をしながら軽くつまんでいるだけ。執事長のアルフレードが、そう教えてくれた。
だから都への出発は、リシャール様が仕事を整理するのに必要な時間を考えて、一週間後に決まった。
私はあと七日もクラルティ邸の素晴らしい蔵書を読むことができる――。
コンコン、と扉のほうから音がした。
開け放してあるのに、どうしてノックをするのだろう。
不思議に思いながら顔を向けると、所在なさげにリシャール様が立っていた。ひとりだ。
急いで立ち上がる。
「すまない、連絡もなく訪れて。仕事が一段落ついたものでね。イレーネがいないと思わなかったんだ」
「どうぞお入りになってください」
テーブルをまわって、向かいの椅子を引く。
「女性にそんなことをさせてすまない」
「椅子にすわりにくい方がいるときに女性だとかそうでないとか、関係ありますか?」
「ある」きっぱりと言ってからリシャール様は笑った。「今までに会った女性たちにはな。せっかくだから、失礼するよ」
杖をつきながらリシャール様が歩いてくる。
「馬車の事故で足の骨が変に折れたらしくてね。以来、上手く動かせないんだ」
「そうなのですね」
「そのとき父が死んだ。それから御者も。私だけが、のうのうと生き延びた」
「お気の毒です。ですが、閣下の命が助かったことは、心より神に感謝します」
彼が目前で足を止めた。宝石のように美しい紫色の瞳が、私を見ている。
「ご迷惑をかけてばかりですけど、知り合えてよかったですから。閣下と本のお話するのが楽しくて」
「――そうだな。私も楽しい」
そう言ってリシャール様は腰をおろす。さっと椅子を押し出すと、
「ありがとう。上手だ」と褒めてもらえた。
私が向かいに座るのを見計らって、彼は杖で床を示した。
「屋敷の廊下中に絨毯が敷き詰めてあるだろう。あれは叔父上が私を配慮してくれたものだ。杖の音に私がノイローゼになってしまってな」
「まあ」
「以前は多くの部屋にも敷いてあったのだが、最初の妻が見栄えが悪いと剥がしてしまった」
最初の奥様は、確か婚姻生活がたった三日間のひとだ。
「廊下を始める前に死んでしまったがね」とリシャール様。
「お部屋にもう一度敷こうとはしなかったのですか」
「死んだからこれ幸いと敷き直すのは、死者に失礼な気がした」
「……閣下はお優しいです」
もしかして、と考える。最初の奥様を好きだったのかもしれない。だから二度と結婚しないと宣言したのではないだろうか。
「ヴィオレッタ。『閣下』とは呼ばないでくれ」
「そうでした。リシャール様」
リシャール様が嬉しそうな顔になる。初めて会ったときは、陰気で怖いひとだと感じたのに。今が本当の彼なのだろう。
「叔父上を悪く言う人間は多い」とリシャール様。
ランスを思い出す。彼もそのひとりだわ。
「都に行けば、きっと君の耳にも入る。だが私にとっては、そうではないんだ。覚えておいてくれ」
「わかりました。私もジスモンド様に悪い印象はありません」
リシャール様が嬉しそうにうなずく。
今日の昼食のときのことだ。リシャール様は多忙で来れないとアルフレードから聞いたキャロライン殿下が、ジスモンド様に向かって言った。
『当主がそれほど忙しいのに、あなたは手伝わなくていいのか』と。
すると彼はにっこりとして答えた。
『僕がここにいるのは年の半分程度ですよ。そんな人間が、当主の叔父だからという理由だけで仕事に口出し手出しをしたら、リシャール以外はみな嫌がります。貴様になにがわかる、とね』
キャロライン殿下は『遊び人らしい言い逃れだ』と断じていたけれど、私はジスモンド様の本心のように思えた。根拠はないから、殿下が正しいのかもしれないけれど。
「ところで」とリシャール様。「キャロライン殿下とはなんの話をしたんだ?」
そうだった。あの後、彼に会っていなかったから、内容をまだ伝えていなかった。
「男性の前では話せなかったこととか、言いづらいことはないかとの確認でした」
キャロライン殿下は、私が四十歳年上の金貸しと結婚予定だったことを知っていて、実家で虐待を受けていたのではと心配してくれたようだった。
「それと、この屋敷に来て以来、身の危険を感じたことはあったかとの質問です」
リシャール様が眉を寄せた。不愉快なのかと思ったけれど、彼は、
「それは私も知りたい。どうだ?」
と訊いてきた。
「昨晩のセドリック殿下だけです」
「そうか。よかった」と彼の顔がゆるむ。
思わず首を横に振った。
「リシャール様には迷惑をかけ通しで心苦しいです」
彼はセドリック殿下の面倒も見ると決めた。私たちが都に行くときに、共に連れて行くという。
それを聞いたキャロライン殿下は、意外にもあっさりと了承した。だけど自分たち――殿下と十二名の近衛騎士と御者と医師――の帰還もそれに合わせるという。クラルティ邸はにわかに大所帯になってしまった。
「ヴィオレッタ。私はか弱い令嬢を見捨てるような、卑怯者になりたくないだけだ」とリシャール様。「だから『迷惑』だなんて言葉はもう言わないでくれ」
「リシャール様は卑怯者なんかでは」
「いいや。『迷惑』と言われるたびに、君を迷惑がって、初対面で挨拶すらしなかった愚かな自分を思い出す。恥ずかしくてたまらない」
困ったような表情のリシャール様。
「だから迷惑だなんて口にしない、いや、考えないでくれないか」
「わかりました。でもリシャール様」
「なんだ?」
「リシャール様はお優しいし頼もしいです」
「そんなことを女性に言われるのは初めてだ」
微笑むリシャール様を見て、胸がズキンと傷んだ。
彼の三人の奥様たちは、どうしてこんな明白なことを、伝えてあげなかったのだろう。




