3・1 死神公爵のお心変わり
自分で感じていた以上に、公爵の叔父との対面でダメージを受けているみたいだ。
自室にようやく戻っての読書時間。だけどあんなに楽しみにしていた『ソフラテフはかく語りき』がまったく頭に入ってこない。こんなことは初めてだ。
叔父の本意はわからない。
ヴィルジニーではないと気づかれる前に、私は行動を起こすべきなのかもしれない。
たとえば荷物をまとめて、逃げ出す、とか。
公爵が陛下から本当に咎められるかはわからないのだから、逃げても構わないのではないだろうか。
――でも、それは詭弁よね。こんな結婚を意に反して押し付けられるのだから、公爵と陛下の関係は良くないもののはず。咎めがないとは考えられない。
彼と本についての意見を交換しあうのは、楽しかった。ヴィルジニーと私のせいで、彼が窮地に立たされるのは避けたい。
だけど、どうすればいいのか、まったくわからない。
本から目をあげて、窓の外を見る。よく晴れた気持ちの良い空が広がっている。
椅子から立ち上がり、窓際に近寄った。屋敷の周囲は美しく手入れされた庭園で、その外側を幅の広い堀が囲んでいる。堀の向こうはまた庭園。かなり遠くまで整備されている。
――わかっている。
私は、彼ともっと本の話をしたいと思っているのだ。
そんなことを言っている場合ではないのは、重々承知だけど。こんなに楽しいことは、お母様が亡くなって以来なかった。
「散歩したいかも」
クラルティ邸へ来て、四日。外に出たことはない。気分を変えて、頭の中をすっきりさせたい。そうすれば妙案が浮かぶかもしれないじゃない。
「のちほど旦那様にお伺いしておきましょう」
独り言に返事があり、飛び上がる。振り返ると執事長が扉のもとに立っていた。
「ヴィルジニー様、旦那様がお部屋に伺ってもよいかと尋ねていらっしゃいます。いかがなさいますか」
公爵がわざわざ私なんかに許可取りを?
「もちろん構いませんが、私が参ります」
「その必要はございません。こちらでお待ちください」
いったい何事だろう。私とこの部屋で話さなければならないことって――ぐるりを見渡す。『出ていけ』と言われるとしか思い浮かばない。
それならおおいに助かる。
だけど、なぜか胸がチクリと傷んだ。
◇◇
待つほどもなく、公爵が従者を連れてやって来た。
立って待っていた私をじろりと見る。
「すわりなさい」
はいと答えて従う。公爵はローテーブルを挟んで向かいに腰掛けた。
なにを申し渡されるのかしら。
やっぱり、叔父をごまかしきれていなかったのかもしれない。
ドキドキしながら公爵の言葉を待つ。
「君に謝らなければならない」
「はい?」
予想外の言葉を掛けられ、つい訊き返してしまった。
「私は陛下の手紙を鵜呑みにし、君を悪女だと断定していた。君の挨拶を受け流し、君の話を聞こうともしなかった。愚かな行為だ」
公爵の表情は険しい。だけどそれはもしかしたら、自分への怒りなのかもしれない。彼の声はとても真摯で、本心からの言葉に聞こえる。
「あのときの私の態度を、許してほしい」と公爵。
「ええと、閣下」頭の中で答えをまとめる。「私は考えていたよりも、ずっと良い待遇を受けています。感謝しかありません。でも閣下がおっしゃっているのは、そこではありませんね」
うなずく公爵。
「正直に言います。第三者から見ると、あまりよろしくない態度だったのだろうと思います」
ろくに人付き合いをしたことのない私でもわかる。挨拶は大事。相手の話を聞くことも大事。家庭教師から、そう教わったもの。
「ですが、私はなんとも思っていません。歓迎されないことはわかっていましたから。でも謝罪は、ありがとうございます。そのお気持ちが嬉しいです」
「そうか」
公爵の頬がゆるんだ。
「あのようなことを言っておいてなんだが、君とはまた書物の話がしたい」
「まあ。私もそう思っていたのです」
公爵の顔がますます緩む。嬉しそうに見えるのは、気のせいかしら。
けれどその表情は、すぐに引き締められた。
「私も正直に話すが、これ以上妻に死なれたくない。生涯独身で通すつもりでいる。君も私とは結婚などしたくないだろう?」
素直にうなずいた。
「なにか良い方法がないか、叔父上と考えている。君はどうだ、なにかあるか?」
『私はヴィルジニーではない』
そう伝えればいい。
だけどそうしたら、私は処罰される。
「なにか思いついたら教えてくれ」と、黙り込んだ私に公爵が言った。「お互いにとって良い選択をしよう」
「ありがとうございます」
「晩餐も共にしないか。本の話をしたい」
「嬉しいです!」
「アルフレードに伝えておく」と公爵。「それと庭園を散歩したいそうだな。好きに出て構わない。イレーネを連れていけ」
「ありがとうございます」
うむ、と大仰にうなずく公爵。
「ほかにも必要なことがあったら、遠慮なく言うように」
公爵は傍らの杖を手にした。それを頼りに立ち上がる。私も立ち上がり、
「数々のご高配をありがとうございます」とお礼を伝えた。
「いや、最初の私はあまりに無礼だった。君の寛容さに感謝する。――では、晩餐を楽しみにしている」
公爵はそう言うと、ランスを連れて去っていった。
問題は山とあるけれど。初めての読書仲間に、自分でも驚くくらいに心が弾んでいるわ。