9.明日の約束
***
その日からレインは学校を休んだ。
彼の体調ではなく、公爵家の方で何かあったらしい。盛大に嘆くレベッカがそんな情報を仕入れてきた。
「エインズワース家に伝わる古代魔導具のひとつが紛失したそうですわ。公爵家では大騒ぎで、模擬試験に参加できるかどうかも分からないと」
「へー、大変だなぁ」
「心がこもっていませんわよダレル! ああ、なんということでしょう。レイン様、お可哀想に」
「試験受けられなかったらどうなるんだ? 落第? 退学?」
「そんなはずないでしょバカなのあなた!?」
素朴な疑問に、レベッカが眉を吊り上げる。
「レイン様ほどの実力があれば、特別試験で合格ですわ。場合によっては休学扱いということもできますし、落第なんてとんでもない。縁起でもないこと言わないでくださらない?」
「なら大丈夫なんだな、よかった」
レベッカと違って、ダレルは能天気な顔をしている。アンジェもそれを聞き、ひそかに胸をなで下ろした。
(よかった。学校をやめるわけじゃないみたい)
「あなたもあなたですわ、アンジェ」
レベッカにじろりとにらまれる。
「レイン様にかばわれたあげく、おっ、おおお、押し倒されたなんて! なんてうらやまし……いえ、身の程知らずな幸運にあずかっていらっしゃいますの? もっと感謝をしてもいいのではなくて?」
「お礼は言ったけど……」
「お礼で済んだら魔法使いはいりませんのよ!」
吊り上がった目を怒らせて、彼女はビシッと指さした。
「なぜレイン様に助けられたのがあなたでしたの!? わたくしと代わって……もとい、わたくしの気持ちを慮って、もう少しやりようがあったのではなくて?」
「それは私に大怪我をしろってこと?」
「違いますわ! レイン様を押しのけるなり避けるなり、身をかわせばよかったということですわよ!」
それはどっちみち負傷コースではないだろうか。
「……でも私が押しのけてたら、レインがもっと危険なんじゃない?」
「そ、それはっ……」
「つまりレインが大怪我をすればいいという……?」
「違いますわよ!!」
「ひでえレベッカ。いくらなんでもそれはないって。ドン引きだよ俺」
ダレルが「うわぁ…」という顔をしてレベッカを見る。「誤解よ!!」とレベッカが騒いでいたが、訂正する気にはなれなかった。
(守るつもりが、守られちゃった……)
そして彼には未だにあの話ができていない。
早く学校に戻ってきたらいいのに――と、少し前までなら考えられない事を思っていると、妙に胸が落ち着かなかった。
物思いにふけるアンジェをよそに、レベッカはますます語気を荒くしていた。
「わたくしがそんなこと思うはずないでしょう!? 訂正しなさい、ダレル・ラドワーズ!」
「訂正してもいいけどさ、ドン引きだよ俺」
「その考えを改めろって言ってるのよ。あなたもそう思うでしょう、ねえ、アンジェ?」
「さ、さあ、どうかなぁ……?」
「あなた! わたくしのレイン様への熱い思いを聞いていなかったの!?」
「俺も聞いてなかったぞ」
「あんたはさすがに聞いてなさいよ! 目の前にいたでしょ!?」
この平民ども!! と叫ぶレベッカに、アンジェはふと問いかけた。
「そういえば、その魔導具ってなんだったの?」
「ああ、そうでしたわね」
乱れた髪をかき上げ、レベッカは言った。
「なんでも、ものすごい魔力を秘めた指輪だそうですわ」
***
しばらく休んでいた彼が登校したのは、模擬試験を翌日に控えた日の事だった。
「レイン様ぁ! 寂しかったですわ」
待ち構えていたレベッカが目をうるませて駆け寄った。
「もうおうちの方は大丈夫なんですの? 心配しましたわ」
「ありがとう、レベッカ」
問題ないよと品よく微笑む。その顔は休む前と同じく涼しげだ。そんな様子を横目で見ながら、アンジェは指輪を握りしめた。
早く話がしたかったが、彼がひとりになる機会は訪れない。人気者のレインは、男女問わずに周囲を取り囲まれている。
そうこうしているうちに、授業が始まってしまった。
魔石のトラブルがあったせいか、実技は以前より慎重だった。アンジェも真面目に参加していたが、なんとなく普段とは違う気がした。
そして、休み時間、昼食と時間は過ぎ、あっという間に放課後になった。
(よ、よし、声をかけないと……)
「あの、レイ――」
思い切って呼び止めようとした時だった。
「エインズワース、ちょっといいか?」
アンジェが声をかけるよりも早く、割り込んできた人物がいた。
「ごめん、ちゃんと謝ってなかったから……。この間、怪我しなかったか?」
「大丈夫だよ、アドキンズ」
やってきたのは赤茶色の髪の少年だった。ついこの間、魔石を暴発させた彼である。
「本当に悪かった。俺、ついむきになって……。粗悪品が混じってる可能性も考えないといけなかったのに」
「仕方ないよ。気にしないで」
レインの声はやさしい。大人びた口調で言われ、アドキンズと呼ばれた彼は感激した顔になった。
「ありがとな。入学した時は貴族なんてって思ってたけど、お前は本当にいいやつだよ、エインズワース」
「買い被りだよ。それより、明日の試験頑張ろう」
(……いいやつ、なのよね……。一応は)
穏やかに話す横顔は、思いやりにあふれている。貴族なのに平民を見下さず、優秀な成績を鼻にかける事もない。このクラスにおいて、レイン・エインズワースの人気は抜群に高い。
彼があんな態度を取るのは、アンジェの前でだけなのだ。
もっとも、自分の態度も褒められたものではないので、どっちもどっちといったところだったが。
だけど、とアンジェは眉を寄せる。
そもそもちょっかいをかけてきたのはレインの方だ。覚えていないが、多分そう。
何の理由もなく、アンジェは人に喧嘩を売らない。
だからこんな関係になっているのは、レインの方に責任がある。……はずだ、多分。
アドキンズ――本名はラドリー・アドキンズという――も、すっかり彼の虜になったらしい。何かあったら言ってくれと言われ、レインもにこやかに頷いた。
なんとなくもやもやしたものを抱えていると、ちらり、と視線が向けられた。
「……なんでカミツキガメみたいな顔してるの、君?」
「そんな顔してないわよ失礼ね!」
ほらこの言い種である。
「用事があるからに決まってるでしょ!? じゃなきゃ見たくないわよあんたの顔なんて!」
「それはお互い様だね。で、何? 話したいことって」
「え……」
「僕が休む前に言ってただろう。あとでって言ったのに、少し延びたな。話を聞くよ」
何? と首をかしげられ、アンジェはうっと口ごもった。
こんなに真正面から来られるのは予想外だ。というか覚えてたのかコイツ……と思いつつ、うろうろと目を泳がせる。
どうしよう、緊張してきた。
いざ話すと思ったら、どこから説明すればいいのか分からない。
正面に向けた両手を無意味にぐーぱーさせながら、アンジェは必死で考えた。
レインは急かす事もなく、その様子を黙って見守っている。ふとその顔が何かを思い出すように細められ、ちらりと眉が寄せられた。
(お、怒ってる……?)
すぐにその表情は解けたものの、ごくり、と喉が鳴る。
「あ、あの」
「うん」
「前にも言ったと思うけど、私、あんたに言わないといけないことがあって」
「覚えてるよ。二度と話しかけるなって言われた」
「あれはっ、そうじゃなくて!」
そっちも覚えてたのかと思いつつ、舌打ちしたくなる衝動を抑える。そちらは完全にアンジェが悪い。
「その。それは……ごめん、なさい」
「うん?」
「そういうつもりじゃなくて、いきなり言われて、びっくりしたから」
まずは謝るべきだろう。あれは確かにいただけなかった。命の恩人ならなおさらだ。
「話があるのは嘘じゃなくて、でも、何から話したらいいか分からなくて。信じてくれるのかも分からなくて、だからどうしようと思ってて、つい、その、口がすべって……」
「……」
「だ、大嫌いって言って、ごめんなさいっ」
そう言うと、深々と頭を下げる。
彼の返事はなかった。
やっぱり怒っているのかと気まずくなる。ここから逃げ出してしまいたかったが、アンジェは足を踏ん張って耐えた。この先を話すには必要な事だ。
おそるおそる目を上げると、レインはこちらをじっと見ていた。
その顔に、怒りは浮かんでいなかった。
「……意外だな」
それどころか、驚いたような顔をしている。
その表情がわずかに動き、かすかな笑みを形作った。
(……あ)
気を許した友人に向けるような、柔らかなまなざし。
初めてまともに笑いかけられたと思ったが、それどころではなかった。
(こいつ、こんな顔で笑うんだ……)
レベッカやダレルに向ける笑みとは違う。年相応の、子供っぽい表情だ。
それとも自分に向けられた笑顔が初めてだから、そんな風に思えてしまうだけなのか。
急にどぎまぎしてしまい、アンジェは大きくうろたえた。
「それで? 話って何?」
「あ、ああ、うん」
レインに見とれていた事に気づき、はっとして話し出す。
「あの、ほんとに変な話だから、信じてくれるかどうかは分からないけど」
「うん」
「信じなくてもいいんだけど、というか、私も信じられないんだけど。でも、嘘じゃないのは本当だから……」
「信じるよ」
「へ?」
「君がここまで譲歩するなら、嘘じゃないんだろう。どんな話かは知らないけど、僕は信じる。約束するよ」
だから、話して。
「……うん」
こくりとアンジェは頷いた。
「少し前にね、夢を見たの」
「夢?」
「そう。その中で、あんたと私が――」
「レイン様!」
その時だった。
「お話し中のところ申し訳ありません。新たな手がかりが見つかったそうです。急ぎ屋敷に戻るようにと」
「少しだけ待ってくれ。まだ話が残っている」
現れたのは護衛だった。いつもの無表情が崩れ、切羽詰まった顔をしている。
「申し訳ありませんが、それは後日に。時間がありません」
彼はアンジェの方を見て、「大変申し訳ありませんが、ご理解ください」と頭を下げた。
「い……いいです。明日で」
どう考えても緊急事態だ。平民の自分にさえこんな態度を取るなんて、通常では考えられない。
「明日話すから。行って、急ぐんでしょう」
「……明日必ず聞くよ」
彼にも分かっているらしく、それ以上食い下がる事はなかった。
慌ただしく去っていった二人を見送り、アンジェは息を吐き出した。
「うまくいかないなぁ、もう……」
だが、一歩は踏み出せた。
明日の試験が終わったら、改めて話をしよう。
アンジェはそう思っていた。
――結果として、その望みは果たされる事になる。
だが、それによってもたらされる結末を、この時のアンジェはまだ知らなかった。