7.二度目の夢見
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(あ……危なかった、危なかった、危なかった)
自分の家に戻ると、アンジェは玄関にへたり込んだ。
あと少しで白状させられるところだった。
なんて目ざとい男だろう。絶対に気づかれていないと思っていたのに。
いずれは言わないといけない事かもしれないが、今は無理だ。彼と対峙して、余計にその思いが強くなった。
あのすべてを見透かすような目に見つめられたあげく、「君、頭は大丈夫?」などと言われた日には、立ち直れる気がしない。
(ほんとに……なんでキスなんかしたのよ、あいつ……)
夢に文句を言っても始まらないが、つい愚痴りたくもなる。
そもそもあれは夢の中の出来事なので、今の彼にぶつけるのは筋違いだ。それは分かっているけれど、平静が保てない。
今自分がやるべきなのは、レインの身を守る事。
そして、できれば夢の話を伏せた上で、問題を解決する事だ。
そのためには彼について知らなければいけない。そして仲良くなる必要がある。
だとすれば、今日のは絶好のチャンスだった。いくら焦ったとはいえ、逃げ出すべきではなかったかもしれない。
(もう声かけないでって言っちゃったし……)
後先考えないのは自分の悪い癖だ。
反省すると、アンジェはとぼとぼと階段を上った。
二階にあるのがアンジェの自室だ。部屋に戻り、ポケットに入れておいた指輪を取り出す。
夢の中で、レインはアンジェの手に指輪を嵌めた。
そして未来へと送り出した。
おそらくはアンジェを助けるために、自分の身と引き換えにして。
どさりとベッドに倒れ込み、アンジェは丸くなって考えた。
レイン・エインズワースを助けるには、どうしたらいいんだろう。
彼は公爵家の人間だから、普段は護衛がついている。学校の中までは入らないが、行き帰りには必ず付き従っている。彼らは腕も立ち、剣にも魔法にも優れていて、簡単にやられるとは思えない。
本来ならば、アンジェが気にする話ではないのだ。
(でもあの時、レインは死にそうな傷を負ってた……)
護衛は倒されたのかもしれないし、そばにいなかったのかもしれない。少なくとも、彼に危害を加える事はできたのだ。護衛だって万能ではない。
未来――そう言ってもいいならだけれど――を知っているのは、今のところアンジェだけ。
だから、なんとかしなければ。
(方法、考えなくちゃ……)
だが、まったく思いつかない。
うと、と瞼が重くなる。
(どうにかして、助け、ないと……)
今日の疲れが出たのか、体の力が抜けていく。
指輪を握りしめたまま、アンジェは眠り込んでいた。
***
***
夢の中で、アンジェは彼と笑っていた。
――何言ってるのよ、もう。
――本当だよ。信じなくても構わないけど。
彼の声は、馴染みのあるものに変わっていた。
あの時の大人びた声じゃなく、まだ幼さの残る少年の声。アンジェのよく知るレインの声だ。
その後も会話は続いていたが、なぜかぼんやりして聞き取れなかった。
(また、夢……?)
だって、彼と笑い合った事なんて一度もない。
だったらこれも未来だろうか。
いつか来るはずの、遠い出来事。
その時、レインが膝をついた。
「大丈夫?」
「なんともない、これくらい」
その時だった。
――試練。
ふいに、その響きが頭の中に流れ込んできた。
(試練?)
首をかしげる暇もなく、レインがその場に倒れ込む。その顔はわずかに青ざめていた。
「どうしたの、しっかりして!」
「……逃げ、るんだ」
「え?」
「何か、近づいて……君だけでも、はやく」
体を起こそうとして、ふたたび倒れる。その時になって気づいた。
レインの背中は、べったりと血で染まっていた。
(なに、これ……)
「――行って!!」
レインの声に、アンジェははっと息を呑む。
だが、もう遅かった。
目の前にぬうっと影が現れる。
小山のように大きな獣だ。いや、これは――魔獣?
太い前脚に、ぎらぎらと光る獰猛なまなざし。灼熱の炎がひるがえる。
知性はないが、明確な殺意を帯びている。レインがアンジェをかばうように立ちふさがり、獣の前に手を広げた。
――これが代償。
ふたたび何かが流れ込む。
――過去をやり直そうとした、その報い。対価。契約。血の誓約。あるいは盟約。
与えられた時間と引き換えに、乗り越えねばならない試練。
未来で死ぬはずだったあなたたちを、運命は逃がさない。
魔獣の牙が襲いかかる。
一瞬後の惨劇を予想して、アンジェは声にならない悲鳴を上げた。
***
***
「―――――っ!!」
はっと気づくと、そこは自分の部屋だった。
「今の、夢……?」
じっとりと冷や汗が浮かんでいる。
夢でよかったという思いと、本当に夢なのかという気持ちが入り混じる。気づけばアンジェは指輪を握りしめたまま、浅く呼吸を繰り返していた。
もしかして、このせいで夢を見たのだろうか。
左手の指輪を見つめ、なんとも言えない気分になる。
手の中に握り込んでいるうちに、いつのまにか嵌まってしまったらしい。触れた指輪はひんやりとして冷たかった。
自分の指には幾分か大きいそれを、目の前にかざしてみる。
やはり何の変哲もない指輪だ。これに不思議な力があるとは考えにくい。
けれど、なぜあんな夢を見たのかは分からない。
(おまけに……さっきのは)
昨日の夢は未来だが、今朝の夢に出てきたレインは、どう見ても今の姿だった。
血まみれの体を思い出し、ぎゅっと肩を縮こめる。
これはどういう事だろう。
未来で危険な事が起こるから、それを変えればいいんじゃないの?
それともこれも未来の出来事なのか。何か事件につながる出来事があって、それがあんな夢を見せたのか。
分からない――けれど。
遠い先の出来事と思っていた夢が、一気に身近になったのを感じた。
アンジェの心臓も、また痛いほど鳴り出している。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
そう思った時、ふと先ほどの声を思い出した。
――試練。
言葉とも響きともつかない何かが、頭の中に流れ込んできた。
代償。報い。対価。契約。誓約。血の盟約。そして試練。
あれは……もしかして、指輪の声?
思わず身震いすると、「アンジェ、早く起きなさーいっ」という声がかけられた。
「は、はーいっ」
時計を見ると、とっくに起床時間だった。慌てて身支度をして下に降りる。階下ではいつも通りの光景が広がっていて、ほっと安堵の息がこぼれた。
「昨日はよっぽど疲れてたのね。夕ご飯も食べないで寝ちゃうんだもの」
「あ、うん、ちょっとね……」
まさか本当の事も言えず、笑ってごまかす。母親は特に気にした様子もなく、たっぷりとシチューをよそってくれた。
「昨日の分まで、たくさん食べておきなさい。デザートのゼリーもあるわよ」
「わ、わーいっ」
夢の事は気がかりだが、それだけを考えているわけにもいかない。というより、夢の事ばかり考えていると不安に押しつぶされそうで、どうにかなってしまいそうだった。
今回は未来の話じゃないし、レインに話してもいいかもしれない。
――けれど、信じてくれなかったら?
ただの夢だと一笑に付されるだけならいいが、嘘つきと思われて、何の対策もしなかったらどうしよう。そのせいで、みすみすレインを死なせてしまったら? それは絶対に嫌だった。
今さら話しかける気まずさと彼の安全を秤にかけ、瞬時に出た結論に従う。
(……こうなったら、しょうがない)
レイン・エインズワースに頭を下げて、自分の話を聞いてもらおう。
馬鹿にされるかもしれないし、呆れた目で見られるかもしれない。けれど、彼を死なせるよりましだ。
(……聞いてくれるかは分からないけど……)
昨日の出来事を思い出し、思わずため息がこぼれ落ちる。
学校へ向かう足は、自然と重いものになった。