17.現実世界で出会うひと
(ここは……)
目を開けると、知らない天井が飛び込んできた。
今は夜だろうか。薄暗いが、月の光が差し込んでいるため、かろうじて周囲は見える。辺りを見回すと、見た事のない寝室だった。
やたらと豪華なのは、もしや貴族用だろうか。
服は着替えさせられ、薄い毛布がかかっている。よく見ると手足に包帯が巻かれ、きちんと手当てがされていた。
左手には指輪が嵌まっている。夢の中と同じ、鮮やかな輝きを取り戻した石。
「……起きたの?」
はっと気づくと、誰かが枕元に座っていた。
顔の辺りが影になって、よく見えない。けれど、その声には聞き覚えがあった。
「……レイン?」
声をかけると、彼は静かに立ち上がった。
その唇は閉ざされたまま、何も言わない。心なしか、怒っているように見える。その奥に揺れているのは――安堵、だろうか。
彼は無言のままアンジェを見下ろし、そして言った。
「馬鹿なのか」
開口一番告げられたセリフに、アンジェの目が点になる。
「……は?」
「逃げろって言ったのに、人の話を聞かないし。勝手に囮になろうとするし、おまけにあんな無茶な真似をして。どう考えても馬鹿だろう、君」
「な……なによ、そんな」
ちょっとは自分でも思っていたが、言葉にされるとぐうの音も出ない。言い返そうとしたアンジェを制し、レインは押し殺した声で言った。
「――君が走ってきた時、心臓が止まるかと思った」
「え……」
「僕の手をつかんだ時も。本気で心臓が止まりそうだった」
「え……縁起でもないこと言わないでよ。そんなの、別に――」
「――でも一番は」
ベッドの上に置かれたアンジェの手に指を重ね、低く言う。
「あの炎に巻かれた時。君が死ぬかと思って、本当に呼吸が止まった」
「レイン……」
「君が生きててよかった、エイベル」
その声に、反論しかけた声が止まる。
「……ごめん、なさい」
よく考えれば、自分は二度もレインの願いを無視したのだ。一度目は未来で、そして二度目はついさっき。
どちらもレインは望んでいなかったのに、勝手に突っ走ってしまった。さすがに呆れられてしまっただろうか。心なしか、レインの目がそう言っている。……気が、する。
けれど、彼はそれ以上言う事なく、アンジェの手に触れたまま息を吐いた。
そのまま、しばらくの時間が過ぎる。
「……傷、まだ痛む?」
ぽつりと、レインに聞かれた。
「ぜんぜん。回復魔法をかけてもらったみたいだし、あとは自然治癒で十分よ」
「ならよかった。――ありがとう」
「え?」
「君のおかげで助かった。だから、ありがとう。感謝してる」
聞き間違いかと思って、アンジェはまじまじとその顔を見た。だがレインは真面目な顔をしている。見つめられても、動じた様子はない。
「……頭でも打った?」
「ほんとに失礼だね、君」
軽く眉を寄せたが、レインの手は離れなかった。むしろ軽く握ってくる。セクハラすんなと言うところだったが、言葉は喉に貼りついた。
まっすぐこちらを見下ろす瞳は、吸い込まれそうに青い。魅入られるという言葉があるが、それに近いかもしれない。月光に銀の髪がきらきらと輝く。そういえば、彼の見かけ(だけ)は極上だった。
レインの指先は、今はほんのり温かかった。その事になぜか安堵する。そこでふと思い出した。
「そういえば、背中の傷は大丈夫だったの?」
「ああ、もうなんともないよ。治癒魔法をかけてもらったし、それに……」
そこで一度言葉を切り、「…いや、なんでもない」と首を振る。
「血が止まっていたのがよかったみたいだ。君の手当てのおかげかな。そっちもありがとう」
「ど、どういたしまして……」
「それはそれとして、やっぱり君は馬鹿なんだけど」
さらりと付け加えられてむっとする。
「そんなにバカバカ言わないでよ。助かったんだからいいじゃない」
「そういう問題じゃない。分かってるのか? 試練の指輪に関わったら、本当に死ぬかもしれなかったんだ。今回は運良く助かったけど、まさか堂々と正面突破するようなイノシシ娘がいるなんて……」
「誰がイノシシよ!」
猿、魔兎、魔熊に続き、今度はイノシシだ。さすがに腹を立ててもいいだろう。
(そういえば、カミツキガメもあったような……)
どちらにしても腹立たしい。じろりと相手をねめつける。
「あんた私に喧嘩売って生きてるの?」
「そう思ってくれても構わないよ。事実を述べるのが喧嘩というならね」
「腹立つ!」
「どっちが」
言い合いしているうちに、なんとなく普段のペースに戻る。
その事に内心で息を吐きつつ、ふとアンジェは思った。
そういえば、彼はあの夢を見たのだろうか――。
「ねえ、あんた……」
「何?」
「……ううん、なんでもない」
だが、結局確認できずに首を振る。
試練を乗り越えた、と彼は言った。そして、あの夢はもう大丈夫だとも。
公爵家の人間である以上、彼が背負っているものはたくさんある。おそらく、これから背負うはずのものも。その過程で危険に見舞われる事もあるだろう。一度目の出来事は、それによって起こった未来だ。
(だけど)
指輪の試練を乗り越えて、アンジェとレインは助かった。
だとすれば、これから未来が書き替わる。レインが生き続ける未来へと。
それを一緒に喜ぶくらい、認めてほしい。
「……君にお礼をしないと」
「え?」
「君のおかげで助かったんだ。何もしないのは居心地が悪い」
「い……いいわよ。私だって助けてもらったし……」
むしろアンジェの方が助けられたかもしれない。そう言うと、レインはちょっと笑った。
「……じゃあ、僕もひとつだけ、もらおうかな」
「何?」
「もう寝て、アンジェ」
手を添えられて、アンジェはベッドに寝かされた。一瞬妙な違和感を覚えたが、形になる前に消えていく。
(まだ話してる最中なのに……)
だが、疲れの残っていた体はシーツに沈み、すぐにうとうととまどろみ始める。その様子をレインがじっと見ていた。
夢うつつの中、何かが近づく気配がした。
さらりと揺れる衣擦れの音。かがみ込む気配。
何かが額に落ち、そして離れる。まぶたに髪の毛が触れた気がした。
「……レイン……?」
「元気でね」
その声がどんな響きをしていたのか、よく思い出せなかった。
完全に眠りに落ちる直前、違和感の正体に気がついた。
(――あ……)
名前。
(アンジェって……)
それが限界だった。
気づくと辺りは明るくなり、レインの姿は消えていた。
お読みいただきありがとうございます。あと一話です。