15.アンジェの魔力
振り向く間もなく、レインに腕をつかまれた。抱きすくめるようにして身を伏せ、炎から逃れる。一瞬後に、二人のいた場所を炎が襲った。
「逃げろ、エイベル!」
アンジェを突き飛ばし、レインが氷の槍を出す。
だがそれは魔獣に届く事なく、あっという間に蒸発した。
(駄目)
このままじゃ、レインが。
次の槍を生み出そうとして、レインが膝をついた。荒い息をつきながら、視線は魔獣から離れない。目をそらしたら、アンジェに注意が向くと知っているからだ。その唇の端から血が伝い、顎に滴り落ちるのを見た。
「レイン……!」
思わず駆け寄ろうとして、「来るな!!」と叫ばれる。同時に、アンジェの目の前に氷の壁が出現した。
「走れ! できるだけ遠くへ、今すぐに!」
「いやだ、レイン!」
「聞き分けろ、エイベル!」
彼に怒鳴りつけられたのは初めてだった。こんな時なのに、びっくりして目を見張る。
魔獣から目をそらさないまま、レインは低く口にした。
「未来の僕が何を思っていたのかは知らない。でもそれは、君に負わせるべきものじゃない。責任を取るのは僕だ。それが公爵家の人間の義務であり、君に対する贖罪だ」
「レイン……」
「二人で生き残ろうって言ってくれて嬉しかった。ありがとう、エイベル」
こちらを見ないままレインが囁く。その唇が微笑みの形を作っているのを、声音から察してしまった。
(いやだ)
こんなの嫌だ、と首を振る。
だって、今日が初めてだったのだ。
他愛無い会話で笑ったのも、真面目に将来の話をしたのも。
夢の話を打ち明けて、信じると言ってもらったのも。
皮肉ではない笑みを向けられて、思わず胸が高鳴った事も。
そして、普通に名前を呼ばれたのも――。
「グアルルルッ!!」
魔獣がレインに飛びかかる。爪の一撃が右肩をかすめ、炎が周囲の木々を焦がした。
アンジェの周りだけは熱くない。氷の壁が熱を遮断し、背後の逃げ道を確保している。
(嫌……)
このまま背を向ければ、アンジェは助かる。
それは夢で見たレインの希望とも一致している。
夢の中のレインも、今のレインも、アンジェに生きろと告げている。その身代わりに自分を差し出し、無事でよかったと笑う。そんな顔が目の前にちらついた。
それがレインの望みなのは、確かめなくても分かっていた。
(だけど)
――だけど。
魔獣の咆哮とともに、周囲に炎の球が出現した。試練の時よりもはるかに巨大な火球が、周囲を赤く染め上げる。
レインが小さく息を呑み、そして氷の壁を出現させた。
自分の、背後へ。
それがどういう目的なのか分かって、アンジェは悲鳴を呑み込んだ。
(レイン)
なんで、という声は言葉にならない。
魔獣に向けて右手を伸ばし、レインは氷の盾を出した。
壁よりもはるかに脆弱な盾だ。おそらく、気休めにもならない程度の。
それでもアンジェには分かってしまった。
自分の身を盾にすれば、壁を守れる。その向こうにいるアンジェもだ。
少なくとも、逃げ切るだけの時間は稼げる。だから彼はそうするのだ。迷いもせずに、ためらいもなく。
(嫌だ……)
ゆらりと、何かが渦巻く気配がした。
中指に嵌めた指輪が輝いている。無意識にそれを嵌め直し、アンジェは両手を握りしめた。
嫌だ、そんなの。
レインが死ぬのも、自分だけが助かるのも、何もせずに逃げるのも。全部、全部、まっぴらだ。
(何が試練よ)
こんなところで彼を死なせて、それで終わりのはずがない。だとすれば、自分が過去に戻った意味がない。
それでいいと思っているのだろうか、彼は。
本当にそれでいいと思っているのか。
だとしたら、それはとんでもない大馬鹿者だ。
目の前の彼だけじゃない。未来のレインが目の前にいたら、引っぱたいてやりたかった。
(なんで)
見捨てるのが前提なのだ。この薄情者の公爵令息。
アンジェは駆け出した。レインがぎょっと目を見張る。
「エイベル!? 何を――」
「言ったでしょ、見捨てないって!」
アンジェが指先に魔力を込める。いつもなら緑色をしたそれが、今は金色に輝いている。体の中を満たす魔力が熱い。自分でも制御し切れないほど。
「エイベル、その魔力……?」
「氷の盾を! 早く!!」
はっとしたようにレインが魔力を展開する。それとほぼ同時に火球が二人を直撃した。
「!!」
ぶつかった炎がはじけ、金色の魔力が霧散する。
火炎が消し飛び、魔獣が怒りの咆哮を上げた。
(力を貸して)
森は植物の宝庫だ。緑が一面に満ちている。
アンジェの魔力はそれほど高くない。けれど、この場所なら。
(レインを守って。力を貸して)
ざわざわ、ざわざわと木々が揺れる。その葉の表面が薄く光っている。
周囲の気配が変わった事に気づいたのだろう。魔獣がわずかに動きを止めた。
「グルルル……」
喉の奥で唸りながら、警戒したように首を巡らす。
だが、これは攻撃のための魔力じゃない。
木々が枝を差し交わし、アンジェ達を守るように包み込む。その先端が輝き、次の瞬間、ゆっくりと葉先から凍っていく。言うまでもなくレインの魔力だ。氷の枝は幾重にも重なり、それは強固な盾となった。
「グアウッ!!」
魔獣が炎を放ったが、かろうじて二人には届かなかった。えぐられた箇所へと枝が伸び、ふたたび氷の盾となる。まるで森がアンジェ達を守るように立ちはだかっているようだった。
氷の葉が舞い散るたび、魔獣にダメージを与えていく。
もはやアンジェの魔力ではない。こんな高等魔法は使えない。
そのうちの一枚が魔獣の背中を直撃し、高らかな咆哮が響き渡った。
「!!」
ひときわ大きな火炎が二人を直撃する。
熱風に目を閉じた時、レインにきつく抱き寄せられた。
「――氷の槍!!」
目の前に迫る業火を切り裂いて、絶対零度の槍が一閃する。
それは魔獣の肩を貫き、前脚の一部を凍らせた。
「グアアアァァ―――アアアッ!!」
すさまじい叫び声を上げ、魔獣が地面をのたうち回る。
だが、致命傷には足りていない。その目に強い怒りが宿る。
魔獣の口がかぱりと開き、中から特大の炎が現れた。
あれを受けたら、この辺り一帯が焦土と化す。
頼みの綱のレインは今の一撃で魔力を使い果たしたらしく、肩で息をついている。元々、立っているのが不思議なくらいの大怪我なのだ。意識がある事すら奇跡に近い。
それでも、彼は逃げる事をせず、アンジェを背後に押しやると、ふたたび構えの姿勢を取った。
「レインやめて、もういい、傷が……!」
「どのみちここで頑張らないと終わりだよ。やれることはやらないと」
「だからって、このままじゃ……!」
あれだけ大量の血を失って、これ以上戦えるはずがない。逃げようにも、今からでは手遅れだ。かばわれている背中がひんやりと冷たい。こんな時でさえ、アンジェが火に巻かれないようにしてくれる。
ふいに、言葉にできない感情が込み上げた。
理由の分からない涙がこぼれ、地面に落ちる。それと同時に、胸の奥から湧き上がってくるものがあった。
(死なせない)
渦巻く気持ちが形となり、体の周囲を取り巻いている。もう駄目かもしれないと思う反面、絶対生きてやると改めて誓った。
――だって。
自分は、そのために過去に戻ってきたのだから。
(死なせない)
絶対に、何があろうと。
(死なせない……)
自分の身を犠牲にして、アンジェを守ったお人好しを。
(死なせない……!!)
そう思った時だった。
アンジェの体から、膨大な魔力が立ちのぼった。
爆発したような光がはじけ、一気に周囲を包み込む。それは魔獣を遠ざけて、輝きが辺り一帯を呑み込んだ。
目を開けていられないほどの強い光の中、何かが流れ込んできた。
これは……記憶?
自分を見つめるレインの顔が、困ったように笑っている。その年齢は今よりも高い。仕方ないなと言いたげに、アンジェをやさしく見下ろしている。
(これ……もしかして)
一度目の――……。
それが限界だった。
力を失って倒れ込む直前、何かがアンジェを抱き留めた。
「エイベル、君は――」
その先の事は、覚えていない。