14.あなたが未来でしてくれたこと
(なんで……)
魔獣は同じ場所に戻らないという定説がある。
獲物を探す場合に限り、彼らは決して後戻りしない。先へ先へ、とにかく前へ進んでいく。だからこそ、近くで隠れる意味もあったのに。
口をふさいだレインの手が熱い。
傷のせいで熱を持っているのだ。その逆に、血に濡れたシャツは冷たい。血液を失いすぎたせいで、貧血を起こしかけている。その手が冷たくなるのを想像し、ぞっと顔から血の気が引いた。
(こんなの、あの夢の通りじゃない……)
そんな事はさせない。
だけど、どうしたらいいんだろう。
――試練。
ふいにその言葉が浮かんだ。
(そうだ……)
あの声は、なんと言っていた?
これが試練だと、確かそう言ったはずだ。
(代償……)
契約。誓約。血の盟約。
だとすればこれは――あの夢と、何か関係がある?
(思い出して……)
あの声は、他に何と言っていた?
まだ何かあるはずだ。早く、早く、思い出さないと。
(確か、未来で……)
――未来で死ぬはずだったあなたたちを、運命は逃がさない。
「――――っ!!」
アンジェは大きく息を呑んだ。
どうして気づかなかったんだろう。
レインが未来を変えたなら、アンジェの運命だって変わっているはずだ。
あの時、死ぬのはレインだけじゃなく、自分もだった?
そしてそれを正そうとして、何者かが自分達の命を奪おうとしている。
だとすれば、今、こうしているのは。
(私のせい……?)
レインだけでなく、アンジェも殺そうとしているのだ。
――それならば。
(ここにいたら……危険だ)
アンジェはごくりと息を呑んだ。
レインの体は相変わらず熱い。いつまでもここに隠れている事はできない。魔獣は鼻が利く。いずれはこの場所を見つけ出すだろう。
だとすれば、やる事はひとつだ。
「レイン、絶対にここを動かないで」
「エイベル……?」
「約束よ。絶対だからね」
レインの血を体になすりつけ、アンジェは無理やり笑顔になった。
「助けを呼んでくる。待ってて」
「何を言って……エイベル!」
レインがアンジェの手をつかむ。それを静かに振りほどいた。
試練というのが本当なら、アンジェの事も狙うはずだ。だとすれば、こうするしかない。
振りほどいた指先が震えている。それに気づいたが、逆にきつく握り込んだ。
「さっきも逃げられたんだし、大丈夫。意外とすばしっこいんだから、私」
「馬鹿なことを言わないでくれ。ここに隠れていれば、そのうち……」
「それじゃ駄目だってこと、あんたの方が知ってるでしょ?」
魔獣がここに戻ってきた以上、残された時間は少ないはずだ。
それが分かっているのだろう。レインがぐっと黙り込む。
助けを呼ぶと言ったが、正確に言えば囮だ。アンジェを囮にして、魔獣をレインから引き離す。そうすれば彼をここで死なせずに済む。
未来でアンジェを守ってくれたレインの事を、今度はアンジェが守るのだ。
たとえ、彼がそれを覚えていなかったとしても。
ポケットにしまっていた指輪を、アンジェは左手の中指に嵌めた。それを見て、レインが驚いた顔になる。
「その指輪……」
「さっき話した指輪よ。それがどうかした?」
「いや――なるほど。そうか、そういうことなのか……」
エイベル、と呼びかけられる。
「それは試練の指輪だ」
「試練?」
「どんな願いも叶う代わりに、それと等価の試練を授ける。試練に失敗した場合、願いをかけた本人は死に、願いはなかったことになる。別名、時戻りの指輪とも言う」
「時戻りの指輪……」
「詳しい説明は省くけど、エインズワースの本家から消えた指輪がそれだよ。ここにあるなら納得だ」
未来で指輪を使ったせいで、過去の指輪も干渉を受けたのだろうと彼は言った。
「時戻りの指輪には例外がある。願いをかけた本人以外に効果が適用された場合、時を遡って、相手と完全に縁が切れれば、その試練は無効となる」
「それって……」
「何も起こらないし、始まらない。ただし、それを発動したのと同じ日付に本人は死ぬ。例外はない」
過去を変えたかどうか分かるのは本人だけだ。けれど、この場合は変えた本人すらその事を知らない。過去に戻ったのは別の人間で、自分自身ではないからだ。
未来の自分の決断など、知る方法はない。そして指輪の効果により、二人の縁は断ち切れる。アンジェが言われた通りに指輪を捨て、何も言わないままだったら、それで終わりのはずだった。
「君が指輪を捨てなかったせいで、僕の運命に巻き込まれてしまったんだよ、エイベル」
アンジェは目を見開いた。
「謝るのは僕の方だ。何の関係もない君を巻き込んだあげく、命の危険にまで遭わせて。指輪を貸して、エイベル。囮になるなら僕の方だ」
「……違う!」
アンジェは首を振った。指輪を胸の中に抱きしめる。
「あんたは私を守ってくれたの。命と引き換えに、ここに送ってくれたのよ。あんたの言ってることが本当なら、絶対に指輪は渡さない」
「エイベル、何を――」
「あんたが言ったのよ。忘れてって」
――そうすれば君は助かる。君の人生は、何も失われない。
アンジェを助けるために、彼は自分の身を犠牲にした。
そしてここでも同じ事を繰り返そうとしている。そんな事を認めるわけにはいかなかった。
(忘れてなんかやらない)
そんな事はできない。たとえ、彼自身がそれを忘れていたとしても。
あの声も、髪も、指先も。何ひとつ忘れてやるものか。
最後の笑顔を思い出にして、なかった事になんかできない。
(……助けるから)
何がなんでも生き延びるのだ。二人で。
指輪を離さないアンジェに、レインが困惑した顔になる。
「そんなことを言ってる場合じゃないだろう。君は僕のせいでこんな目に――」
「私が決めたのよ。あんたに決められたわけじゃない」
レイン・エインズワース、と名前を呼ぶ。
「あれが本当にあったことでも、ただの夢でも構わない。私はあんたを見捨てないし、ここで死ぬのもまっぴらよ」
「エイベル……」
「二人で生き残るの。いい、二人でよ」
そしてそれにはアンジェの方が適任だ。
何か言いかけ、レインはわずかに表情をゆがめた。そんな顔は初めて見るものだった。
「なんで君は、いつもそんな……」
その時だった。
大きな衝撃とともに、氷の結界が吹き飛ばされた。




