13.夢の話をあなたと
「……レイン?」
「大丈夫だよ、これくらい」
よく見れば、その体にはいくつもの火傷があった。
打撲や擦過傷だけでなく、えぐられたような傷痕もある。アンジェから見えないように隠していたのだろう。背中の辺りがざっくりと裂け、そこからおびただしい量の血が流れていた。
「て、手当てっ……」
「無駄だよ。ここには薬がない」
「そんなこと言ったって、このままじゃ……!」
「それよりも、話をしてくれないかな」
かすかに息を吐いてレインが笑った。
「気が紛れるように、なんでもいいから。昔話でも、独り言でも、子守歌でもいい。何か話して」
「なんで……」
「君の話、一度も聞いたことがないから」
からかうように言いながら、その息は熱い。痛みを押し殺しているのだろう。顔色は悪く、額に汗がにじんでいる。
せめて少しでも効くようにと、アンジェはフレアベルの花を取り出した。
「この花、血止めになるんでしょう。どうすればいいの?」
「すり潰して塗るだけだよ。ただし、すり潰す時に魔力を込める」
「背中に当てて……ううん、私がやる」
指先ですり潰し、レインの背中に当てていく。傷に触れると、ほのかな輝きがこぼれ落ちた。
治癒魔法が使えたらいいのだが、ここで使う事はできないし、そもそもアンジェには扱えない。治癒魔法は光と決まっている。よく知らないが、昔からそうだ。
植物と光は相性がいいが、だからといって、植物型のアンジェが光魔法を使えるわけではない。
「……っ」
傷に障るのか、レインがわずかに息を詰める。それを見て、思わず手が震えた。
(どうしよう)
どうしたらいいんだろう。
「……なんて顔してるの」
泣くのをこらえているせいで、ひどい顔になってしまった。それを見て、レインがおかしそうに笑う。
「心配しなくても、君くらい守ってあげるよ」
「そんなこと言ってるんじゃない……」
「今のでずいぶん楽になった。手当ての才能だけはあるね、君」
からかうように言われたが、ろくに返事もできなかった。
彼が怪我をしたのは自分のせいだ。
レインひとりだったら、もっとうまく立ち回れた。この場所に逃げ込む時だって、ずっと効率のいいやり方ができたはずだ。
魔獣の攻撃から守ってくれたのも彼だ。アンジェだけだったら、今ごろは地面に転がっていた。レインがいてくれたから、何度も攻撃をかわせたのだ。
(私がいなかったら)
レイン・エインズワースは、魔獣と戦う事も、こんな怪我を負う事もなく、きちんと対処できたのに。
「ご、ごめ……」
「……エイベル?」
レインが戸惑ったように名前を呼んだ。
そういえば、彼がアンジェを名前で呼んだ事はなかった。いつも「君」とだけ言い、どうしても必要な時は名字で呼んだ。
他の女の子達はみんな名前で呼んでいるのに、どういうつもりかと腹が立った。それほど嫌われているんだとも。
お返しのように自分はフルネームで呼んでいたが、いつの間にかそれが癖になった。
彼は自分だけを名字で呼び、自分は彼だけをフルネームで呼ぶ。
当たり前のようになってしまったが、よく考えればどうしてだろう。
(こんな時なのに)
そんな事を思ってしまうのは、多分、涙が止まらないせいだ。
「……泣かないで」
しゃくりあげていると、困ったように言われた。
「君がそんな顔してると調子が狂うな。いつもみたいに、考えなしの強気でいてくれないと」
「うるさっ、バカ……」
「その調子」
何を言われても、アンジェの涙は止まらなかった。
迷惑をかけると分かっているのに、どうしても泣き止む事ができない。レインの前で泣くなんて屈辱だ。それも、彼本人が原因だなんて。
それなのに、しゃくりあげる声が止められない。
ぽたぽたと涙が地面に落ちて、小さくはじける。
それを見て、レインが困惑した顔になった。
「本当に調子が狂うな。エイベル、泣かないで」
「な、泣いてないっ……」
「泣いてるだろう、どう見ても」
「泣いてない……っ」
ぐしゃぐしゃな顔のまま言っても、説得力は皆無だろう。あとで絶対にからかわれるだろうが、そんな事はどうでもいい。
ひくっとしゃくりあげた時、目元にそっと指が触れた。
「……だから、泣かないでくれないかな」
「な……」
「君に泣かれると、落ち着かなくて困る」
レインの指が、アンジェの涙をすくい取っていた。
目を上げると、彼は本当に困惑した顔をしていた。
途方に暮れた、といった方が近いかもしれない。女の子の扱いなんて手慣れているはずなのに、その仕草はどこかぎこちない。それとも、怪我をしているせいだろうか。アンジェに触れる手つきが慎重で、こわごわしている。まるで大切なものを扱うようにそっと。
やさしくぬぐわれて、なだめるように頬を包む。あまりにびっくりして、思わず涙が引っ込んだ。
「レ、イ――」
「いつもみたいに、ゴリラ顔負けで騒いでほしいな。その方がいい」
「……何よ失礼ね!」
「ああ、ゴリラが怒った」
ふざけるなと言い返したが、その声はいつもより元気がない。
レインの背中からにじみ出る血は、服にじわじわと染みていき、今はそのほとんどを赤く染めていた。
血が止まったように見えるのは、願望が見せる錯覚だろうか。レインの顔色は青ざめている。もはや残された時間が多くない事は明らかだった。
「……そういえば、僕に話があるんじゃなかった?」
「え……?」
「何もすることがないんだから、話してくれないかな。何の話?」
「それは……」
こんな時にと言いかけて、こんな時だからだと思い直す。
けれど、頭の芯が麻痺したように動かない。それでも話があった事だけは覚えていて、アンジェはあいまいに頷いた。
「そう、言わなくちゃいけないことがあって――」
せめて少しでもレインの気が紛れるように。そう思いながら、言葉を紡ぐ。
「夢を……見たの。だから、伝えないといけないって、思ってて……」
「何を?」
「それは――……」
その時だった。
アンジェの目が、こぼれそうなほど見開いたのは。
(あ……)
そうだ。
「……知ってる……」
自分は、この光景を知っている。
レインと笑い合ったのは二度目だ。
一度目は夢の中で、アンジェは確かにそれを見ていた。
彼が大怪我する姿を見たのも初めてじゃない。夢の中で、レインは傷を負っていた。アンジェはそれも見ていたはずだ。
どうして忘れていたのだろう。
いや、それ以前に、どうして彼に言わなかったのか。
自分は、この未来が起こると知っていたはずなのに。
(私のせいだ……)
先ほどよりも強く、強く、そう思った。
「エイベル?」
急に動かなくなったアンジェに、レインが不思議そうな顔になる。
「……ごめんなさい」
アンジェは唇を噛みしめた。
「私が、言えなかったから……。こ、こんな怪我したの、私のせいだ……」
「どういう意味? 君のせいじゃないよ」
「違う、私のせいなの」
かぶりを振り、込み上げてきた涙を飲み下す。ごしごしと目を擦り、一度深呼吸した。
そこでアンジェは話し始めた。
今からしばらく前、不思議な夢を見た事。
その夢の中で、自分とレインはとても仲が良さそうだった事。
それとは裏腹に、取り巻く状況は危険だった事。
二人とも傷だらけで、特にレインは瀕死の重傷を負っていた事。
レインが自分を助けるために、何かを行ったらしい事。
気づけば目が覚めていて、数年前に巻き戻っていた事。
そして、古ぼけた指輪だけが枕元にあった事。
キスの事は言えなかった。けれど、分かる限りの事を話した。
そして、二度目の夢の事も口にした。
「夢の中で、レインがひどい怪我をしてて……。こ、声が聞こえた。『試練』って言ってた。未来で死ぬはずだった私たちを、運命は逃がさないって」
「僕たち?」
「も……もっと早くに言えばよかったんだけど、言えなくて。し、信じてもらえないと思って……」
ごめんなさいと頭を下げる。
止まったと思っていた涙が地面に落ちて、パタパタとはじけた。
(私は馬鹿だ)
恥ずかしいなんて思わず、変な目で見られる事など恐れずに、さっさと話してしまえばよかったのだ。
そうすれば、彼がこんな怪我をせずに済んだ。危険な目に遭う事もなかったかもしれないのに。
それができなかった情けなさと後悔に、自己嫌悪が込み上げた。
「……それが、君の話したかったこと?」
静かな声で、レインに聞かれた。
「うん……」
「前に、夢の話だって言ってたね。なるほど、そういうことか」
分かった、と呟く。
「信じるよ」
「え?」
「君は嘘をついてない。そうだろう、エイベル」
「で、でも、こんな馬鹿げた話なのに」
「馬鹿げていてもなんでも、君が嘘をついていないなら、それは真実だ。そうだろう?」
「だけど……」
「それと、エイベル。ひとつ言っておく」
言葉と同時に、ぶにっと頬をつままれた。
「君は悪くない」
「……ひゃい?」
「君が言えなかったのは当然だし、僕が信じる保証もなかった。事前に言われても、同じ結果になったはずだ。君が気にすることじゃない」
「でも、私がちゃんと教えてれば……」
「関係ないよ。言っただろう、君のせいじゃないって」
ぶにぶに――正確に言えば、ぷにぷにと頬をつまみながら、「君は悪くない」と繰り返す。反論したかったけれどうまくできず、アンジェはそれを引きはがした。
「……なんで人のほっぺたで遊びながら慰めるのよっ」
「つまみ心地がいいから。肌すべすべだね、君」
「セクハラすんな」
だが、おかげで涙は止まっていた。
それに気づくと、急に顔が赤くなる。
「と……とにかく、言いたかったことはそれだけよ」
「それで全部?」
「……まあね」
キスの事は言わなかったが、ほとんど全部伝えられた。
「夢の中では、僕と君、仲良しだったんだ?」
「夢じゃなくて、未来! しかも数年後よ、誤解しないで」
「未来の君と僕は仲が良かったんだ?」
言い直されて、余計に顔が赤くなる。
「知らないわよ、そんなこと」
「どんなふうに仲が良かったの?」
「だから知らないったら」
「君しか見てないんだから、教えてほしいな。友達みたいだった? それとも親友みたいだった? 君と仲がいい僕なんて、想像もつかないんだけど」
「親友って言うか……」
――あれは、むしろ。
(こい――)
「エイベル?」
「ちちち違う! あれはそんなんじゃなくて、あんたが勝手にっ……」
言いかけた口をふさがれる。
「!?」
「しっ」
来た――と囁かれる。
その声は鋭く、わずかな緊張が含まれている。
何がと思った直後、唸り声が響いた。
――ウォオー―――ォォォオオオン!
一度は遠ざかったはずの魔獣が、ふたたびこの場に戻ってきた。