12.命がけの鬼ごっこ
***
目の前は炎に包まれている。
手を引かれ、アンジェは茂みに飛び込んだ。その上を炎が通過していく。
「なに、これっ……」
「魔力が無尽蔵とは聞いていたけど……想像以上だな。大型魔法を連発してるのに、ちっとも疲労していないなんて」
アンジェを下から抱き留めたまま、レインが事もなげに言う。
「余裕じゃないの、あんた」
「そうでもないよ」
背中と肩をしっかり抱かれているせいで、身動きが取れない。さっさと離せと言いたいところだが、今はかくれんぼをしている最中なので仕方ない。肩先に鼻を押しつけるような姿勢が不自由だったが、アンジェはあきらめて力を抜いた。
カウントゼロで放ったレインの魔法は、相手の鼻先を直撃した。
魔獣がわずかにひるんだ隙に、手を取って駆け出す。
走り出した二人の背後で、恐ろしい唸り声がした。
(こ、これは……)
怒っている。
ものすごく怒っている。
炎の球を食らいそうになったのを皮切りに、次々と炎が襲いかかる。息つく暇もない攻撃に、アンジェは息も絶え絶えだった。
「な……なんで、ここまで……っ」
「喰らうつもりの獲物に反撃されたあげく、逃げられたなんて屈辱だからね。匂いが続く限り、どこまでも追ってくる。それが魔力持ちならなおさらだ」
「怖いこと言わないで!」
小声で叫ぶと、背中に回った腕に力が込められた。
「もしかして、怖いの?」
いたずらっぽく囁かれる。
「ち……違うけど」
「大丈夫。この先に小さな洞穴がある」
そこまで行けば、しばらくは身を隠せるはずだと付け加える。
「丘まで突っ切りたかったけど、足は向こうの方が速い。下手な真似をして追いつかれるよりは、この近くにいた方が安全だ」
「そうね」
正直、魔獣がここまで素早いとは思わなかった。小型ならともかく、相手は大型種なのに。
魔獣は耳がよく、魔力の気配にも敏い。下手な魔法を使っては気づかれる。
かといって、いつまでもここに隠れているわけにもいかない。辺り一帯を焼き払われたらおしまいだ。
魔獣の気配が遠ざかった事を確認し、行くよ、とレインが告げる。アンジェは無言で頷いた。
そろそろと、気づかれないように足音を忍ばせる。
辺りに注意し、三十歩ほど何事もなく歩いた先で、レインがはっと息を呑んだ。
「危ない!」
飛びつくようにして押し倒された上を、ゴウッ!! と炎が通り過ぎる。瞬間、焼け焦げたような匂いが鼻をついた。
「レイン!」
「大丈夫。……それより、あっちだ。あの茂み」
わずかな目線の動きだけでそれを教える。
「合図をしたら、先に行って。すぐに僕も向かう」
「そんなこと――」
「大丈夫だよ、約束する。今度は本当に向かうから」
だから行って、ともう一度言う。少しためらったが、今は言い合う時間も惜しい。アンジェは小さく頷いた。
「……約束だからね」
答えの代わりに、レインの魔法が炸裂した。
「氷の槍!」
辺りの木を薙ぎ払い、茂みの向こうにいるはずの魔獣に襲いかかる。同時に放たれた炎の息が、両者の間でぶつかり合った。
「くっ!!」
氷の刃をものともせずに、魔獣が飛びかかってくる。転がるようにしてそれを避け、レインはふたたび魔法を放った。
魔獣の足元から突き出た槍が、炎に包まれた脚を貫く。魔獣が苦悶の声を上げ、すさまじい炎が噴き上がる。
「今だ、行って!!」
それと同時に、アンジェは素早く駆け出した。
仕留めようと炎を吐き出しかけた口に、氷の風が叩きつけられる。それは瞬間的に魔獣の顔を凍らせて、わずかながらも時間が生まれた。
(馬鹿……!)
やっぱり囮になったんじゃないか。
でも、ちゃんと向かうと言ってくれた。今はそれを信じるしかない。
言われた通りの場所へ行くと、確かに洞穴が存在していた。
二人が十分に身を隠せるほどの広さで、入り口は植物に覆われている。急いでもぐり込み、植物の陰に身を隠すと、完全に周囲の景色に溶け込んだ。
(レインは無事なの?)
顔を出す事はできない。ここが見つかったらおしまいだ。
レインが命がけで用意してくれた場所なのだ。自分の行動で台無しにはできない。
(でも)
いつの間にか指先が震えているのに気がついた。
先ほどの恐怖とは別の、焦りのようなものが体を満たす。
これは不安だ。不安と焦燥。
どうか無事でいて、とアンジェは祈った。
(お願い、無事で……!)
ドオン!! という爆発音がして、びくりと身を硬くする。
(まさか)
まさか、まさか――まさか。
その時だった。
転がり込むようにして洞穴に入ってきた人物がいた。
「レイン!」
「……ごめん、遅くなった」
肩で息をつきながら、素早く目の前を氷で覆う。おそらく簡易の結界だ。すぐそばに魔力除けの植物もあるから、しばらくは目くらましになるだろう。
(無事でよかった……)
ほっと息をつくと、指先が冷え切っている事に気がついた。
「心配してくれたんだ?」
「だ……誰がっ」
その通りだと言う事もできず、照れ隠しに横を向く。だろうね、と苦笑交じりの返答があった。
「無事でよかった、お互いに」
「……うん……」
頷きながらも、まだ信じられずにいる。
「なんでこんなところに魔獣が出るの?」
「分からないけど、すぐに討伐隊が出るはずだ。それまで持ちこたえられれば問題ない」
「そうだけど……」
初めて間近で見た魔獣は、想像よりもずっと恐ろしかった。肌が焼け焦げるような熱と恐怖。吐き出される吐息さえ、灼熱の炎のようだった。
まだ危険が去ったわけではないが、命が助かった事にほっとする。
安心したところで、体の力が抜けてしまった。
「どうしたの、君?」
「ち……ちょっと、疲れただけ」
腰が抜けたとはとても言えない。ふうん、と答えた彼は何を思っているのか、それ以上言わなかった。追及するなと念じたのが効いたのかもしれない。
気づかれたら恥ずかしさで立ち直れないと思いつつ、アンジェは足に力を込めた。
「――そういえば、さっきの話だけど」
「こんな時に何……」
「こんな時だからだよ。さっきの話。続きをしよう」
軽口を叩いているが、アンジェを不安にさせないためだろう。そういうところは相変わらず紳士だ。自分相手に発揮されるのは珍しいが。
いつもならともかく、非常時は特別なのだろうか。その事が妙にくすぐったい。
「さっきも言ったけど、君は合格ラインにいる。やらないのはもったいない」
「何言ってるのよ、もう」
「本当だよ。信じなくても構わないけど」
すました顔で言う彼に、アンジェは思わず笑ってしまった。
こんな時なのに、緊張がほぐれてほっとする。
やってみたいと言おうとして、ふっと既視感を覚えた。
(あれ? 何か、この感じ……)
レイン・エインズワースと一緒に笑い、楽しげに話している。
――何言ってるのよ、もう。
――本当だよ。信じなくても構わないけど。
このやり取りをするのは二度目だ。
「だから、もしよかったら――」
言いかけたレインが少しふらつく。
反射的に背中を支えようとして、ぬるりとしたものがまとわりついた。何気なく手元を見て、アンジェは硬直する。
(え……?)
アンジェの手は、血でべったりと濡れていた。