1.過去に戻る
――長い、長い夢を見ていた気がする。
「レイン、レインしっかりして! 目を開けて!」
泣き叫ぶ自分の声がする。
「お願い、レイン! 死なないで!」
「アンジェ……」
荒い息の下、かすれた声が名前を呼ぶ。
こんな状況なのに、その声には切羽詰まった響きはなく、いつも通りの声音だった。
「悔しいけど、相手が一枚上手だった。まさかここまでするとは思わなかったけど、読み切れなかった僕の負けだ」
「レイン、喋らないで! 今止血を……っ」
「無駄だよ、アンジェ」
余計な事はするなと、ゆるく首を振る。その体の下にじわじわと何かが広がっていく。床を赤く染めるのは、彼自身の血だまりだ。
「勝負には負けたけど、これで終わりじゃない。――アンジェ」
名前を呼ばれ、アンジェは彼の顔を見た。
「いいかい、アンジェ。君は生きて」
「レイン……?」
「君は生きて、幸せに暮らすんだ。次は僕に関わったらいけないよ。何があろうとも、僕とは無関係に過ごすんだ」
「何言って、レイン……」
「手を貸して」
膝をついていたアンジェは、手を引かれてよろめいた。レインの力が強かったからではない。その力が思った以上に弱々しかった事に、衝撃を受けたのだ。
声を出す前に、するりと何かが指に嵌まる。
それは銀色の指輪だった。
何か言おうとして、唇に指を当てられる。
「幸せに、アンジェ。僕のことは忘れて。約束だよ」
「レイン、何を――」
「いいかい、全部忘れるんだ。この指輪はどこか遠くに捨てて、何もかも忘れて過ごすんだ。そうすれば君は助かる。君の人生は、何も失われない」
「レイン、レイン? 何を――」
「好きだよ、アンジェ。元気でね」
近づけた唇に、何か柔らかいものが押し当てられる。
それは唇だった。アンジェの頭を抱くようにして、レインに唇をふさがれている。
目を見開くと、彼は満足そうに微笑んだ。愛おしげに髪をなで、いたずらっぽく囁く。
「君の驚いた顔は、やっぱり可愛いな」
「レイ――」
「さようなら、アンジェ」
その時だった。
強く爆発したような光が起こり、すべてが白く塗りつぶされた。
***
***
次に目を覚ますと、アンジェは自分の部屋にいた。
「………んん?」
横に目をやれば、カーテンの端がわずかに明るい。とっくに日が昇ったのだろう。うーんと伸びをすると、ベッドの端に手が当たった。
「変な夢……」
なんというか、奇妙な夢を見たものだ。
夢の中で、自分は数年の時を過ごしていた。
ひとつひとつは濃密だったはずなのに、振り返れば一瞬の出来事だった。たった一夜で、数年分の夢を見たという事だろうか。他国にはそんな話があったような気もするが、詳しくは知らない。けれど、ただの夢というには妙にリアルで、真に迫っている気がした。
けれど――。
「……ないない」
自分で自分に突っ込んで、アンジェはふへっと笑いを浮かべた。
あれはいくらなんでもない。
この世界が引っくり返ろうともあり得ない。
だから、今のはただの夢だ。
「アンジェー? 何してるの、早くご飯食べちゃいなさい」
「あっ、はーい」
階下から母親の呼ぶ声がする。慌てて返事をし、アンジェは寝間着を脱ぎ捨てた。ぽいぽいとベッドに放り投げ、手早く着替えて下へ行く。
小さな木製のテーブルには、いい匂いのする朝食が並んでいた。
「わぁ、おいしそう」
目を輝かせ、アンジェはいそいそと席に着いた。
「アンジェったら、もう少し早く起きないと。十三歳にもなって、遅刻したらどうするの」
「……十三歳?」
「あなた今十三歳でしょう。違うの?」
「……そうでした……」
夢の中では十八歳くらいだったのだけれど、もちろん口に出すはずもない。十三歳、十三歳と、確認するように繰り返す。
「寝ぼけてないで、しゃんとしなさい。魔法学校に入学して一年近くになるって言うのに、相変わらずぼーっとしてるんだから」
「はーい」
母親のお小言を聞き流し、赤スグリのジャムを手に取る。たっぷりの砂糖で煮込んだ甘酸っぱいジャムは、昔からの好物だ。パンに塗ってかぶりつくと、おいしさが口いっぱいに広がった。
「ん~~~~~っ」
「あんたは本当においしそうに食べるわねぇ」
母親が苦笑してそれを見ている。
近くでは温かなスープが湯気を立て、柔らかな空気を漂わせている。パンも焼き立てで、香ばしい匂いが辺りに広がる。外では小鳥がチチチと鳴いて、上天気をうかがわせた。
「……平和だ」
「なあに、アンジェ?」
「ううん、なんでもない」
いただきます、と挨拶して口に運ぶ。スープもパンも、冷たいミルクも、いつも通りにおいしい。
うん、平和だ。
あの夢とは全然違う。
ここには炎や風も、血の匂いも、死にそうな人間も存在しない。
「お母さん、今日って何もないよね?」
「なあに、急に?」
「なんでもない」
ないならいいの、と笑ってごまかす。
確認しないと、あの夢に引きずられてしまうような気がしたからだ。
単なる夢なのに、どうも頭から離れてくれない。あまりにもはっきりしていたせいだろうか。
そう、唇の感触まで、妙にリアルだった気も――……。
「わ――――――っ!?」
いきなり叫び声を上げた娘に、食器を片づけていた母親が振り返る。
「いきなり大声を出すんじゃありません。何かあったの?」
「い……いや、なんでも……そう、虫、虫がいたから!」
「やあね、この子は。虫くらいで大声出さないのよ」
「あ、あははは……」
ごめんなさいと謝ったが、アンジェは思わず唇を押さえた。心臓の音が妙な具合で鳴っている。何か聞かれる前にと、アンジェは鞄をつかんで立ち上がった。
「もう学校行くね、お母さん。行ってきまーすっ」
「え、もう?」
返事も聞かずに家を飛び出す。
膝丈のスカートが、風を受けてふわりと揺れた。
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