Case2:≪無限菓子壺≫①
あたし、リウ・エトワールこと星野梨羽がこの世界に転生してきてしばらく経つが、今まで知らなかったことがある。どうやらこの世界と元いた世界にはよく似たイベントが存在しているらしい。そのことをあたしは出社直後に上司のカタンに教えられて知った。
「リウ、今日は何の日だか知ってるか?」
あたしの上司にあたる強面の男性ににやつきながらそう聞かれ、あたしは考えるのも面倒くさくて適当な答えを口にする。
「カタンさんの誕生日は夏に過ぎましたし、カタンさんちのワンちゃん……フルーヴくんの誕生日も二ヶ月くらい前に過ぎましたよね。そしたら今度は奥様のお誕生日とかですか?」
無知なあたしをからかうのが楽しくてしかたないといったふうにカタンはげらげらと笑いながら、
「ぶっぶー。そんなわけないだろ。今日出社してる途中に何かおかしいと思わなかったのか?」
何かがツボに入ったのか一人でぶっぶーと繰り返しているカタンを横目に、そういえばとあたしは出社途中に見た光景を思い出す。
「そういえば今日は変な人が多かった気がします。それも何か女性ばっかり」
何故か道ゆく女性の多くが元の世界でいうハロウィンの仮装のようなものに身を包んでいた。歩いているときに遠目に見えた貴族街のほうではどこの屋敷も競い合うかのように派手に装飾が施されていた。更にはどこの家も屋敷の前に思い思いの仮装に身を包んだ女性の使用人たちがずらりと並んで、道ゆく人々のうち何故か男性にだけ甘い匂いのするお菓子を渡していた。前世のニュースで見たヤクザが地域の子供たちへハロウィンにお菓子をばら撒いている映像と重なって見えてなんだかげんなりした。
「それでカタンさん。あれは一体何なんですか? 朝からやたらあんなハイテンションなもの見せられたら、あたし胸焼けしちゃうんですけど」
あたしはやたらと上機嫌なカタンを白けた目で眺めながら、白いコートを脱いで自分の椅子の背もたれへとかける。カタンはにやつく目元の皺をより一層深めながら、
「今日は『聖夜』――女性は仮装をして意中の男性にお菓子を贈り、お菓子をもらえなかった世の男性たちは女性たちにちょっとした悪戯をする。そしてまだ恋愛ごとには早い子どもたちには夜寝静まった後にご先祖様の霊がプレゼントを持ってくる、そんな日だ」
「何ですかそのどっかで聞いたようなイベントを足して割ったようなやつは。っていうか、聖"夜"の割に朝から皆さん張り切り過ぎじゃないですか?」
あたしが席に腰を下ろしながら半眼で突っ込むと、カタンは世の中そんなもんよと楽しそうに宣った。
「で、今日はそういう趣旨の日なわけなんだけど、その味気のない格好は何なのかな、リウ・エトワール嬢? そんなんじゃ今日一日男性諸君からしょーもない悪戯ばっかり食らうぜ? この会社はその手のイベントしっかり謳歌する社風だし」
「う……」
苦りきった顔であたしは自分の今日の服装を見下ろした。黒のニットに膝丈の茶色のチェックのジャンパースカート。足元には取り立てて特徴のないダークブラウンのブーツ。髪だっていつも通りうねって広がる黒い猫っ毛を無造作に赤いリボンで纏めただけで、お世辞にも前世でいうところのハロウィンとクリスマスとバレンタインとをごった煮にしたようなイベントを楽しむ格好とはいえない。出勤途中に見かけた女性たちとは大違いだ。
「で、リウ。俺へのお菓子は?」
口元をニヤリと歪めたカタンがあたしへと問いかける。ああもう、とあたしはデスクの上に置いた白いバッグの中から財布を取り出すと、
「わかりましたよ! お菓子買ってきたらいいんでしょう!」
行ってきます、とあたしは今入ってきたばかりの扉のほうへと踵を返す。
「あ、ついでに俺のコーヒー買ってきて」
背中をカタンの声が追いかけてきたが、「そのくらい自分で買ってきてください!」あたしはぴしゃりと叫び返した。
始業時間から大して時間が経っていないというのに執務室を飛び出していくあたしを微遅刻常習犯の他部署の社員たちがすれ違いざまに何ごとかと見ていた。
会社の建物から歩いて五分ほどのところにある菓子店をあたしは訪れていた。聖夜というイベント柄か、開店からまもないはずなのに菓子店の前には思い思いの仮装に身を包んだ女性たちが長蛇の列をなしている。
十分ほどして自分の番が回ってきて、あたしはショーケースを眺める。明らかに義理用の菓子の包みでも一つにつき銅貨三枚分ほどの値段がする。あたしは前世の忌まわしき義理チョコ文化を思い起こしながら、予想外の出費に頭痛を覚えた。
(義理チョコ文化と同じって考えるなら、普段、関わりのある人の分は用意しなきゃ駄目だよね……カタンさんの分は当然として、調査部のアトリさんやルースさん、企画部のカイさんに、技術部のエメットさんやケルンさん……女の人だけどアネッサさんにも一応買っておこうかな? あとは営業部とか……)
あたしは十個余りの菓子を購入する旨をやたらとリアルな化け猫のコスプレをした店員の少女に告げる。銀貨三枚を支払うと、菓子の包みが詰まったずっしりと重い紙袋を受け取った。
(重……、っていうか結構な出費になっちゃったなあ)
あたしは紙袋を見下ろすと溜め息をつく。銀貨三枚もあれば、服の一枚だって買えるし、外でのランチならば三回くらい食べられる額だ。
仕方ない、とあたしは思い直しながら、会社への道を歩き始める。思い返せば、前世のあたしは、入社直後の新人時代にお金がないことを理由に周囲のランチの誘いを断り続けた結果、気がつけば周りから浮いてしまっていた。今は優しく温かく、ちょっと愉快な人々があたしの周りにいてくれているけれど、変に意地を張って彼らの輪の中から浮いてしまうような愚を再び繰り返したくはなかった。
郷に入っては郷に従えという言葉もあるし、このそわそわとした今日のこの雰囲気は嫌なものではない。前世ではこんなイベントを楽しむ余裕も雰囲気もなかったので、業務の傍らといえ、今日一日を楽しむのも悪くないかもしれないとあたしは思い始めていた。