Case1:≪記憶眼鏡≫④
会社の建物の向かいにある公園のベンチに座り、あたしは溜息をついていた。目の粘膜が少しヒリヒリしている。鏡を見ていないのでわからないが、恐らく今、あたしの白目は真っ赤になっている。こんな顔のままじゃ仕事に戻れない。
社会人失格だな、とあたしは思う。イレギュラーな出来事にめっぽう弱いあたしがあの状態では使い物にならないと判断し、本来ならそんな場合じゃないはずなのに適当な口実を作って、落ち着くための時間をカタンは与えてくれた。それなのにあたしは泣いてあの場を逃げ出してきてしまった。あたしは最低だ。あたしは背中を丸め、手に顔を埋める。
前世のあたしもこうだったな、と思う。ありえない日程を組まれたスケジュールに納期、やってもやっても終わらずに心折れるほどの作業量。村八分どころか、必要な連絡すら回してもらえないようなあの場所で孤立してしまっていたあたしは、いつだって一人で全部を抱え込んで耐えるしかなかった。誰にも相談できないままじわじわと追い詰められた心と体が限界を迎え、どうにもこうにもにっちもさっちもいかなくなって、ある日の夜、終電ぎりぎりの駅のホームで死にたいなと思いながらぼんやりとあたしは暗い線路を見つめていた。もう全部終わりにしよう、どこか冷めきった思考でそんなことを考えたあたしはちょうどホームに滑り込んできていた電車の前に体を躍らせたのだった。パァンという耳をつんざくようなあの警笛の音は生々しい記憶として今でもまだ覚えている。
頭を過ぎった嫌な記憶に心臓の鼓動がどくどくと早くなる。あたしが今いるここは日本じゃない、そう自分に言い聞かせる。ここは前世とは異なる剣と魔法の世界――レムーン王国の王都シーヴァだ。今のあたしはあのころとは違う。
あたしの今の職場――魔法アイテムの製造メーカーであるラーゼン社はお世辞にもホワイトな職場だとはいえない。それでも、今あたしの周りにいる人々――カタンさんたちは文字すら読めなかった転生直後のあたしに手を差し伸べて、受け入れてくれた。あたしの言葉に耳を傾けてくれた。周りの人々のこのあたたかさは、前世のあたしが生きていた場所にはなかった得難いものだった。
いつの間にか、この会社はあたしにとって大切な居場所になっていた。いつだって業務はカツカツでろくなところじゃないけれど、それでも今のあたしはあの場所が好きだった。まだあたしはここにいたい――追い詰められてはいるけれど、それでも前世のあたしと違って今のあたしは死にたいとは思ってはいなかった。ゆっくりと顔を上げると、視線の先で会社の建物が西日に赤々と照らされていた。
ほんの少し視線を下へ向けると、公園の入口の広場にカフェが出ているのが目に入った。ここのコーヒーを気に入っているのか、カタンが時々朝買ってきていることをあたしは知っている。
さっきから恐らく三十分くらいは経っている。そろそろ戻らないとじきに日が暮れてしまう。あたしの顔面はともかくとして、気持ちは多少落ち着いた。カタンはたぶん咎めはしないだろうが、いい加減戻らないといけない。あたしは意を決して立ち上がる。今のあたしに必要なものは勇気と誠意とアイスコーヒーだ。こんなところでへこんでうじうじする時間じゃない。
「すみません、コーヒーください。一番大きいやつをアイスで、ミルクたっぷりで。持ち帰りでお願いします」
カフェへと立ち寄り、あたしは若い女性の店員へと注文を伝える。はーい、と明るい声が応じ、あたしの注文を繰り返した。カタンはいかにも男は黙ってブラックだと言わんばかりの顔をしているが、コーヒーはばりばりミルクを入れる派だ。ちなみにどうやら紅茶にはレモン派のようだ。
カウンターの上に置かれたかごにチョコレートバーが盛られているのが目に入った。泣く子は黙るどころかもっと泣きそうな強面のくせに、あたしの上司は結構な甘党だ。こんなものでお詫びになるとは微塵も思っていないが、これも買っていこう。
あたしは支払いを済ませ、コーヒーとチョコレートバーを手にすると頭上に聳える会社の建物へと戻っていった。