Case1:≪記憶眼鏡≫③
≪記憶眼鏡≫とはただの眼鏡ではなく、名前の通り見たものを記憶しておける機能を持つ魔法アイテムである。土の魔力を応用して、眼鏡の記憶領域に内容を記録しているらしいが、現代日本であまり流行らなかった某眼鏡型ウェアラブルデバイスの機能限定版みたいなものかとあたしは解釈している。
この世界に転生してきて、最初は文字すらわからなかったあたしは一般常識から業務内容に至るまで、いろいろな書物や資料の内容をこのアイテムを駆使して記録しまくり、日々をどうにか凌いでいた。
しかし、この記憶眼鏡が原因で事件が起こるとは、あたしは予想だにしていなかった。
新しい≪記憶眼鏡≫を手にしてから数日が経ったある日、あたしはいつも通りに仕事をしていた。左隣の席に座るカタンが鼻歌交じりにデスクの上に置かれた無限にお菓子が湧き続ける魔法アイテム――≪無限菓子壺≫に惰性的に手を伸ばしながら、雑誌をぺらぺらとめくっているのもいつも通りだ。雑誌の表紙には『週末、愛犬と行く! 王都の公園特集BEST5』と書かれており、フルーヴという名の愛犬をまるで自分の息子であるかのように溺愛しているカタンらしいといえばカタンらしい。というか仕事しろ。
雑誌に一通り目を通し終わったのか、カタンは席を立った。あたしがちらりと時計を確認すると、十五時半を指していた。
カタンが席を立ってから十分ほど経ったとき、主が不在の左隣のデスクの上で巻き貝の形をした魔法アイテム――≪星信貝≫から某林檎印の有名なスマホを彷彿とさせる軽快な音楽が流れ始めた。
≪星信貝≫は光の魔力と風の魔力を空に浮かぶ星々を経由させることで相手に自分の声を届けることができる魔法アイテムであり、要するに電話である。値段の張る貴重品であるため、うちの会社ではあたしのような下っ端社員は持っておらず、役職者にのみ与えられているのだが、どうにもあたしの上司は席を立つときにこれを恣意的にデスクに置いていっているふしがある。
仕方なく仕事の手を止めて、カタンのデスクに放置されている≪星信貝≫をあたしはトランシーバーのように手に取り、
「あ、もしもし」
「あれ、リウちゃん? カタンさんは?」
≪星信貝≫の中から聞こえてきたのは技術部のアネッサの声だった。カタン率いるこの支援部は彼女の部署との関わりが深い――彼女の部署の人手が足りないときに便利に使われることがやたらと多いため、割と頻繁に彼女から連絡がある。
「アネッサさんですか、お疲れさまです。カタンさんは多分、時間的に煙草だと思いますよ。そのうち戻ってくると思いますけど、どうかされたんですか?」
カタンは毎日ほぼ決まった時間に煙草を吸いに席を立つ。大抵は十時半、十三時半、十五時半、十七時半の四回だ。定時で帰る日は最後の十七時半はない場合もある。
「うーん、そっか。ちょっと、インシデント発生してるんだよね。何か開発部が無断で情報持ち出しちゃったらしくって」
「え、そうなんですか」
他所の部署の話に過ぎないので、あたしは大変だな、と半ば他人事のように思いながらアネッサの話に相槌を打つ。カタン曰く社内の大半を実質的に掌握している真のボスというだけはあって、彼女はこういった情報をやたらと早く掴んでくる。
「もしかしたら、情報流出してるかもってことで、今いろいろ確認取ってるところで、こっちのフロアは今かなりばたばたしてるんだけど。ところでさ」
「おい、リウ」
アネッサが何かあたしに切り出そうとしたところで、男の低い声があたしの背後からかけられた。機嫌が悪いのか何なのか、ただでさえ強面なのに人相の悪さが百倍増しだ。
「あっ、カタンさん。アネッサさん、カタンさん戻ってきたので代わりますね」
カタンはあたしから≪星信貝≫を受け取ると、顎をあたしのほうをしゃくって、
「リウ、お前、その≪記憶眼鏡≫いつ変えたんだっけ?」
「え……先週、企画部に寄ったとき、ですけど……?」
「お前の前の≪記憶眼鏡≫から、情報漏れたかもしれないらしいぞ」
「え……?」
戸惑うあたしをよそに、カタンは≪星信貝≫でアネッサと話をし始める。
アネッサは開発部が無断で情報を持ち出したのだと言った。そして、カタンはあたしの古い≪記憶眼鏡≫から情報が流出しているかもしれないと言った。つまり、それは開発部があたしの使っていた≪記憶眼鏡≫を無断で持ち出したことによって、情報流出が発生したかも知れないということを意味している。自分が思いっきりこの件の渦中にいることを悟り、あたしの思考は真っ白になる。
どうしよう。この世界に来て最初のころに手当り次第に記憶した一般常識レベルのことが大半とはいえ、あの中には業務情報だって入っていた。よくわからないけど大丈夫だろうと手間を惜しんで、重要な内容を消さずにそのままカイに≪記憶眼鏡≫を渡してしまったのはあたしだ。
もしかして、この一件が原因でクビになるのではないか。ここという働き口を失ってしまったら、この世界で一人、あたしはどうやって生きていけばいいんだろう。あたしの中で悪い方向に想像が膨らんでいく。目に熱いものが込み上げてきて、あたしは唇を噛む。
「おい、リウ。おい」
アネッサとの話が終わったらしいカタンがあたしの名前を呼んでいた。はい、とあたしは力なく返事をする。
「まず、一旦カイのところに行くぞ。と、その前に、お前ちょっと外行って俺のコーヒー買ってこい」
「は……?」
あたしは思わず目を瞬いた。せり上がってきていた涙がほんの少しだけ引っ込んだ。あのな、と苦笑まじりにカタンは言う。恐る恐る見上げたその顔は思いがけず優しかった。
「よく覚えておけよ。この件でお前に非があったとして、そもそもお前に責任が取れるなんて端から俺は思ってない。責任を取るのは、俺みたいなおじさんの仕事なんだよ。上司っていうのはそのためにいるんだ」
「カタンさん……」
悪いと思うんなら一番でかいやつ買ってきてくれたらそれでチャラだ、とカタンは片目を閉じる。とても下手くそで五十歳という年齢には不相応なウィンクだったが、空気を必要以上に重くさせまいとするその心遣いがありがたかった。
一度引っ込んだはずの涙がまた溢れてきて、あたしは慌てて俯く。≪記憶眼鏡≫のレンズに水滴が落ちる。
あたしはたまらなくなって、デスクの上に置いていた財布をひっつかむと駆け出した。