Case1:≪記憶眼鏡≫①
「なあリウ、今朝アサップでお願いしたやつってもうコンセンサス取れてんの?」
昼休みが明ける五分前、デスクに突っ伏して仮眠をとっていたあたしの意識はタバコの匂いのする男の声に肩を揺すられて、現実へと浮上した。デスクの上に適当に置いていた野暮ったいことの上ない黒縁の眼鏡をかけ直すと、ぼやけていた視界に浅黒い肌の強面の中年男性の姿が映る。アサップはなる早、コンセンサスは合意とかそういう意味だった気がするが、急ぎで確認を取らねばならない案件などあたしの脳内では飽和状態である。あたしは起き抜けからげんなりとした気分になりながら、
「あーもう……何ですかカタンさん。今朝のってどれですか」
「ほら、どっかの馬鹿がジャストアイディアの段階でステークホルダーのアグリー得ないままゴーしちゃったやつ」
意味のわからないカタカナだらけの言葉からは何のことだか特定できず、あたしはデスクの引き出しからは手作りの単語帳、脳内からは現在受けている全ての依頼状況を引っ張り出す。
あたし――リウ・エトワールは星野梨羽二十八歳として平成の日本を生きていたはずが、ある日の深夜、この世の地獄のような社畜生活に絶望して飛び込み自殺を図り、電車に轢かれた。ぐちゃぐちゃの礫死体となって、人生と社畜生活を終えたはずのあたしは、目を覚ますと異世界にいた。これがラノベやアニメで最近流行りの異世界転生というやつかと思っていたら、ここは元の世界でも使わなかった量のカタカナのビジネス用語が日常的に飛び交うとんでもない世界だった。しかも、転生してなお社畜生活からは逃れられない運命だったようで、剣と魔法のこの世界で魔法アイテムの製造メーカー――レムーン王国の王都シーヴァにあるラーゼン社に勤務し、馬車馬のように働く羽目になっている。
前世では社畜だった割には、意識高い系の人々が好んで使うカタカナのビジネス用語に明るくないあたしは、自分の字が書かれた単語帳をぺらぺら巻くって、どうにかカタンの言いたかったことを理解する。たぶん、カタンが言っているのは、まだただの思いつきの段階であったにもかかわらず、顧客のOKも得ずに話を進めてしまったあの件だ。
「あー……開発部が独断専行で勝手に動いちゃったやつですか……」
げんなりしながら答えると、それそれと長身で強面のあたしの上司は頷き、
「いくらブルーオーシャン戦略取りたいからって、仕様のフィックス前に製造部動かすとか馬鹿馬鹿ばーか」
五十路を超えているというのに、面白がるように子供じみた悪態をつくカタンをあたしは苦笑いで受け流す。ブルーオーシャンってなんだっけなと思いながら、あたしは手の中の単語帳のページを繰る。ブルーオーシャンとは未開拓の市場のこと――要は他の企業がまだやっていないようなことを思いつき、気持ちが逸るままに仕様すら固まっていないというのに製造部を動かす暴挙にでてしまった開発部に対しての罵倒をあたしの上司は口にしているのであった。あいつら本当にろくなことしないなと、午前中からこの件についてばたばたと駆けずり回る羽目になっていたあたしは胸中でカタンに全面的に同意しながら、
「その件ですけど、技術部だけまだです。アネッサさんが体調不良で午前休だとかで」
「えっ、あの仕事中毒の女ボスが体調不良? また朝まで飲んでたとかじゃなく?」
「……いや、知りませんけど」
あたしが半眼で適当にあしらうと、カタンは面白そうにからからと笑う。この人楽しそうでいいなと思いつつ、「面倒なのでこれから直接技術部行ってきます」とあたしは席を立った。立ち上がった拍子にデスクの上にあった茶色い小瓶が倒れて転がる。
「またそれ飲んでんの?」
「この前、上のフロア行ったら調査部の人が箱でくれたので。激マズですけど寝ないで仕事しても大丈夫になるんでありがたくいただいてます」
現代日本でいうところのエナドリにあたるが、どうにも仕組みは違っていて、一時的な身体能力強化のために法規定ぎりぎりの量の火の魔力が入っていると聞いた。まだ開発中の商品で、≪限界突破薬≫などという安直過ぎる仮名称がついているらしい。薬が切れた後の反動が凄まじいようで、あたしにこれをくれた調査部にはゾンビのごとき生ける屍の山ができていた。死屍累々とはまさにああいうことを言うのだろう。
効果が切れて動けなくなる前にそろそろ追加で飲まないとなどと思いながら、あたしは魔力認証でドアを開け、執務室を離れた。